清浄華院の不動信仰 向阿上人と泣不動尊像

清浄華院の不動信仰

向阿上人と泣不動尊像

向阿上人肖像(清浄華院蔵)

 もともとは三井寺にあった泣不動尊像ですが、現在は清浄華院に伝来しています。これは鎌倉時代終わり頃に活躍した清浄華院第五世・向阿是心上人によって持ち込まれたためと伝えられています。
 向阿上人は浄土宗の学僧として有名な方ですが、初めは三井寺にて出家、泣不動尊を信仰していたといいます。室町時代に成立したと考えられる『浄華院霊宝縁起』をみると、こんなお話が伝わっています。

 三井寺で修行し、学僧として頭角を現した向阿上人。信仰していた泣不動尊の加護もあってか、二十六歳にしてすでに弟子もとるようになりました。
 その中に十四歳になる一人の稚児がおりました。飲み込みも早く頭もよかったので、上人はその稚児を非常にかわいがり、自分が拝んでいた泣不動尊像をその稚児に授けるほどでした。

 そんな中、ある時上人は大病にかかりました。床から起きることもできず、死をも覚悟しましたが、そんな病がある日より突然癒えはじめました。
 程なくして上人の病は全快しましたが、稚児の姿が見当たりません。上人が探してみると、稚児の房では葬儀の最中。別の弟子の言うことには、稚児はちょうど上人の病が癒えた頃に死んでしまったといいます。
 病気の間、世話してやることもできずに稚児が死んでしまい、上人は非常に悲しんで亡骸を抱いて号泣したといいます。

 稚児の遺品が上人のもとに届けられ、その中には自分が授けた泣不動尊像の厨子もありました。その厨子を開けてみると、中から紙が出てきました。
 開いて読んでみると、それは稚児が書いた願書でした。「師匠の向阿上人はこの末世の人々を救うことのできる人であるから、いまここで亡くなられるべきではない、私が身代わりになりたい」と泣不動尊に対して誓いを立てたものでした。

三井離山(『向阿上人絵傳』より)

 ここで上人は自分のために稚児が身代わりになり死んだことに気付きます。未来ある稚児が死んでしまったことに無常を悟った上人は、彼の菩提を弔うために三井寺を出て、念仏の教えに帰依したといいます。

 その後、向阿上人は清浄華院第四世・礼阿上人のもとで浄土宗義を学び、清浄華院の住職となります。浄土宗の教えを広く伝えるため、仮名法語『三部仮名抄』を執筆しました。わかり易く物語の体裁をとり、仮名文で教えを説いたこの書物は、後々まで浄土宗の教義書として重用されました。

 三冊ある内容のうち『帰命本願抄』は師弟の問答の形をとって念仏の教えをわかり易く解いています。向阿上人はこの師弟に、自分と成長するはずだった稚児の姿を重ねていたのかもしれません。

 向阿上人は三井寺を出た後も泣不動尊像を身から放さず信仰したといい、上人の没後は清浄華院の什宝とされました。

 このお話は、稚児が結局死んでしまいますので、泣不動尊の利益譚とはいいがたいものがあります。そのためか『浄華院霊宝縁起』以外の縁起書類には書かれていません。しかし、清浄華院に泣不動尊像が伝わった由来と向阿上人が念仏の教えに帰依した経緯を語った、興味深いお話といえましょう。

 
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