清浄華院日記

清浄華院日記 ※主に日記資料より

西暦年号事 項原文刊書誌論文・抄出書誌
1339.07.27暦応二年七月廿五日中院通数逐電、方々尋ねたところ、浄華院「故向阿上人弟子」聞智を戒師として出家。「中院一品記」『大日本史料』(暦応二年雑載)
1351.06.23観応三年六月廿三日存覚(常楽台主)、香園院(二条師忠)姫宮の御文を帯び、浄華院へ向かい長老(玄心)に謁す。これ、綱巌僧都(存各七男・真宗錦織寺五世)の望みのため、住寺聞法なり、即領状、よって七月七日、本人彼の寺へ向かい向顔、後別聞弟指授了。「常楽台主老衲一期記」(『大日本史料』応安六年二月二十八日条)
1352.09.28文和元年九月廿八日本道医師光吉入道玄照(惟宗光吉・歌人・浄華院門弟)臨終の歌を残す。『砂巌記』(『大日本史料』)
1361.04.3康安元年四月三日浄花院長老玄心上人(割注・浄土宗最長、最学抜群僧也)此四五日円寂の由之を聞き、よって状をもって付属の弟子證法房に訪ね、返事あり。終焉本意の如し云々。故入道(三条実重)相国以来代々の師檀なり。即代々菩提相訪ねし事。『後愚昧記』p.18
1363.03.24貞治二年三月二十四日浄華院長老證法(玄教、故玄心上人附弟、浄土宗鎮西流なり)、使者僧敬法(貞熈僧全)送らる。英職を尋ね之を聞くをもって、来27日先師上人第三回忌辰なり。願文・諷誦、書き送るべきの由これを示し、領状了。『後愚昧記』p.56
1363.03.25貞治二年三月二十五日晩に及び敬法また来る。願文・諷誦草(唐橋在範卿の草)並びに料紙(高檀紙下絵あり。諷誦は只の高檀紙、下絵なし。)之を持ち来る。『後愚昧記』p.56
1363.03.26貞治二年三月二十六日午刻許、昨日の願文・諷誦之を書き出す。書状をもって表書き、浄花院方丈。礼節恐々敬白、判。彼の僧、故向阿上人の時より代々知識あい憑むの故なり。故殿(三條実忠)の後、かつこの如し。進取の所送贈を欲して、喜悦の由、返報あり。『後愚昧記』p.56
1365.06.5貞治四年六月五日中御門宣明薨去、翌日浄華院に送られ、出家、法名乗誓云々。『師守記』第八(p.254)
1370.02.9応安三年二月九日万里小路大納言仲房卿、禁裏詩御会退出の後、中風の所労さらに発し、大略死門の間、浄華院長老敬法房(貞熈僧全)善知識となす為これを招請す。然して次第に立直し、殊なき事云々。(『後愚昧記』)『後愚昧記』p.218・『祇園執行日記』(『大日本史料』)
1381.12.2永徳元年十二月二日『後愚昧記』に等持院は「当時(現在)」禅院であるが、元来浄華院という「当時(現在)」土御門室町にある向阿上人開山の浄土宗寺であったと記される。『後愚昧記』p.48・『古事類苑』宗教部四十二 吉川弘文館 p.392
1396.02.03応永三年二月三日越前西福寺良如、野坂庄櫛河郷本御所田について証文を出す。(違乱あれば本寺浄華院に訴訟する旨云々)西福寺文書「越前国野坂庄櫛川郷内門原田地事」(福井県文書館)(『大日本史料』同年雑載)
1399.04.08応永六年四月八日越前西福寺開山良如(浄華院敬法弟子)、寺領の寄進を受け、その土地について後代の住持が違乱をうけた際は「本寺(浄華院)」へ訴え異儀を止むべしとの置文を記す。西福寺文書「越前国野坂庄櫛川郷内門原田地事」(福井県文書館)
1402.11.26応永九年十一月二十六日北山殿(義満)法華八講の證義となった興福寺大乗院の孝円が上洛。まず九条殿を訪ね、御宿所の浄花院へ移る。「孝円御寺務応永九年記」(『大日本史料』応永九年十二月二日条)
1402.12.01応永九年十二月一日明日二日より法華八講が始まる。浄花院より北山殿は遠いのでかねてより広橋仲光に申し入れていたところ、千本の歓喜寺をあてがわれ、本日移住。供奉人は周囲の在家を宿所とする。「孝円御寺務応永九年記」(『大日本史料』応永九年十二月二日条)
1404.03.23応永十一年三月二十三日興福寺別当大乗院門主孝円上洛、浄花院へ立ち寄る。「寺院細々引付」(『木津町史』資料編p.504)
1405.05.27応永十二年五月二十七日(春日社にて木が枯れる異変があり神楽をすることになり、異変の説明のため上京中の春日社神職)辰市祐時、浄華院に立ち寄る。「辰市家旧記」応永十二年五月二十七日条(『大日本史料』応永十二年六月六日条)
1405.06.05応永十二年六月五日僧淨鎮、越前西福寺永代の寺領の田地を一期の間の知行を西福寺良如より許される。「西福寺文書」(『大日本史料』応永十二年雑載)
1405.08.05応永十二年八月五日尼顕性、越前西福寺へ野坂庄櫛河郷大日堂田合二反を寄附する。自身と孫僧浄鎮一期の間知行の由所望のため許容。違乱の輩は本寺浄華院へあるべきのよし云々の旨、後證のため良如が記す。「西福寺文書」(『大日本史料』応永十二年雑載)
1407.05.05応永十四年五月六日(教言、)伝え聞く、北山殿(義満)常(淨)華院御成り。御供裏松(日野重光)。念仏法門、長老(定玄)これもうされ云々。『教言卿記』(『大日本史料』)
1408.0.0応永十五年トウキ上人、金戒光明寺に後小松天皇より「浄土真宗最初門」の勅額を賜る。『黒谷志要』?(浄土宗全書)『日本仏教史』第五巻中世篇之四 辻善之助 s45 P.262
1409.03.19応永十六年三月十九日夜、正親町町、次いで浄華院焼亡。禁裏近々間。(『教言卿記』)「浄花院四条道場炎上」(『大乗院日記目録』)(『東寺王代記』には「三月廿二日、夜丑刻浄化院回禄」とある。)『大乗院日記目録』一p.302『教言卿記』『東寺王代記』(『大日本史料』)
1410.05.05応永十七年五月五日足利義満三回忌のため、崇賢門院(北朝後円融天皇生母、義満の叔母)による諷誦会が行われ、「御会師」浄華院長老(定玄)の所望により広橋兼宣が諷誦文を記す。「曼殊院文書○山城」(『大日本史料』)
1412.02.03応永十九年二月三日越前西福寺開山良如智水寂す。(敬法に師事した。道残筆の伝記に敬法が亀山院の戒師になったとなど書かれる。)『浄土鎮流祖伝』四敦賀西福寺良如上人伝(『大日本史料』)
1415.11.24応永二十二年十一月二十四日定玄忌日。(『建内記』永享11年2月6日条25回忌、文安四年三月二十四日条、33回忌法要。)『建内記』八p.47
1416.07.1応永二十三年七月一日浄華院の脇より出火、公家邸や後小松院仙洞御所などを焼く。「浄花院者無為也」。『看聞日記』(『大日本史料』)『京都中世都市研究』高橋康夫 s58 p.180
1419.0.0応永二十六年浄厳坊隆尭が『三部仮名鈔』開版する。隆尭本『三部仮名鈔』『隆尭法印と阿弥陀寺・浄厳院』
1423.06.22応永三十年六月二十二日足利義持が浄華院末寺の越前西福寺を祈願寺となすべき旨の御教書を出す。西福寺文書「(足利義持御判御教書)」(福井県文書館)
1425.07.28応永三十二年七月二十八日称光天皇御病激しく、大神宮・八幡宮、陰陽師などによる祈祷がある。法華経などが上げられ、御座の左右に阿弥陀三尊・地蔵像などを掛ける。称光天皇は年来浄土信仰が厚く、「浄華院聖人(等熈)」を召される。「年来浄土御信仰也、仍可召浄花院聖人之由、被仰万里小路大納言、彼人縁人也、仍即参入、可為御善知識之由被仰云々」『薩戒記(写本)』(二 大日本古記録 岩波書店 p.186)(『大日本史料』「史料稿本」)『日本仏教史』第五巻中世篇之四 辻善之助 s45 P.262
1425.07.28応永三十二年七月二十八日称光天皇御病激しく、御祈祷がある。浄花院の等熈も召される。「今日連々有御発病依召浄華院長老上人等熈参内。浄土法文為被聞召也。時時被勘申御念仏者也。(中略)阿弥陀佛木造同絵像等被懸御眼路。(木造者自室町殿被召進絵像者自崇賢門院并浄花院被召寄之)為叡旨被仰出云。」『兼宣記)』(『大日本史料』「史料稿本」)『日本仏教史』第五巻中世篇之四 辻善之助 s45 P.262
1428.01.04正長元年正月四日時房、今日より先母忌日供養。「凡於松林庵先考御供」云々(欠字が多く意味不明。)『建内記』一p.28
1428.01.05正長元年正月五日時房、新春参礼に所家へ赴き、武衛(斯波義淳)、広橋宣光に続けて浄華院へ参る。『建内記』一p.29
1428.01.06正長元年正月六日時房、嗣房忌日のため浄華院に詣でる。「先考御忌日也、祭典如例、於浄華院作善又如例歟」『建内記』一p.29
1428.01.18正長元年正月十八日時房、浄華院を訪れる。「向浄花院」(傍注欠字のため不祥。)『建内記』一p.43
1428.01.24正長元年正月二十四日時房、浄華院に参る。叔父定玄御影前にて焼香、風呂に入る。「向浄花院、(於前住御影前焼香・念佛了)有風呂。一条室町一入了」『建内記』一p.56
1428.01.28正長元年正月二十八日時房を浄華院長老(等熈)がおとなう。「浄華院長老来臨」『建内記』一p.59
1428.01.30正長元年正月三十日無量寿院良意が時房をたずねる。(欠字のため詳細不明)『建内記』一p.60
1428.02.04正長元年二月四日時房、母の忌日のため浄華院等熈らを招き法要を営む。また等熈が時房に年頭参賀のお礼を、成房には栗を贈る。「先妣御忌日也、招請浄花院長老并(無量)寿院住持(良意)及(良)円房(淨蓮華院僧也、)僧乗房(浄華院僧也)□・・・□先□・・・□、次勤行、阿弥陀経、往生礼讃、念□・・・、次御霊供(先公御霊供又如例)諷経了、次斎食了分散、布施物追可沙汰送之」「今日長老被持送杉原十帖・茶三袋、年始予参賀礼物云々、又風流之栗被与小生(成房)者也」「終日追修之外無他事」『建内記』一p.63
1428.02.11正長元年二月十一日時房、浄華院に嘱し、毎月仁王経を購読せしむ「今日仁王経購読寺家(浄華院)存礼歟、毎月之祈祷也」『建内記』一p.64
1428.02.25正長元年二月二十五日時房を浄華院長老(等熈)がおとなう。「浄花院長老来臨、淨蓮華院長老来臨、賢如房、良円房、少補等入来」『建内記』一p.70
1428.02.26正長元年二月二十六日時房、浄華院に近火見舞いに赴く。「次向浄花院、一昨夜彼寺西門前酒屋小家等消失、而寺家無為之条賀之者也」『建内記』一p.71
1428.05.06正長元年五月六日時房、嗣房忌日のため浄華院に詣でる。「先公御忌日也、於松林庵(浄花院)諷経如例、蓬屋祭典又如毎月且毎日之儀也」『建内記』一p.122
1428.05.16正長元年五月十六日時房、大般若経札・配帙、浄花院より送らる。毎年の佳例也。『建内記』一p.140
1428.05.23正長元年五月二十三日時房、浄華院に参る。「向浄花院、数刻言談」『建内記』一p.155
1428.05.29正長元年五月二十九日無量寿院(良意)、時房を訪ね、弟子快恵の任権大僧都について謝す。「無量寿院来臨、快恵権大僧都事謝示云々」『建内記』一p.165
1428.06.02正長元年六月二日時房、祖父仲房の正忌のため良円房・祐明房らを招き斎。浄蓮華院、松林庵(於浄蓮華院松林庵)へ施入。浄蓮華院の塔へ参る。『建内記』一p.176
1428.06.02正長元年六月二日時房、仲房忌日のため祭典を行う。「尊祖(仲房)儀同三司殿御正忌、祭典致敬、崛請良円房・祐明房等者也、斎食如例、於浄蓮花院・松林庵者毎年有施入、作善事去年□・・・□計会之間不及其儀、凶年不滅可謂迷惑、但有志無力者歟、参詣浄蓮花院御塔者也」(浄蓮華院は浄華院とは別寺院であるが、松林庵は浄華院塔頭であろうから取上げた)『建内記』一p.176
1428.06.03正長元年六月三日華開院、福聚院等、時房と等熈香衣着用に付き談合。「花開院・福聚院等来臨、浄花院長老(等熈)香衣□□有り談合之旨者也」『建内記』一p.178
1428.06.04正長元年六月四日時房、母の忌日のため僧衆を招き作善法事を行なう。「先妣御忌日也、作善毎月之儀也僧衆無量寿院(良意)・良円(浄蓮華院)・僧乗(浄華院)・玄侃房・教悟喝食等招引之、時(斎)・点心、誦経・礼讃、已下面々法事了、良円・教悟等読理趣経等、懇志可謝者也」『建内記』一p.179
1428.06.11正長元年六月十一日主上(称光)、御逆修のため浄華院等熈をして同寺において如法念佛を修せしむべき旨仰せらる。(禁裏)有(召)、三条大納言奉之、則参入(之)、□・・・□於浄華院可被行如法念佛、先年雖及此御沙汰依不事行延引了、重可尋寺家之由被仰下、招長老等熈上人示此事、可存知之由申之、用脚事相尋之、先度注進惣用了、上分雖無際限、以勘略之分万疋、最勘略七千疋、如此注申、然而近日米穀等飛騰、以七千疋更難事行之由申之付三条大納言奏聞之所、万疋可被下行、自来廿一日可始行之由有 勅定、日次事内々被尋仰、寮頭在貞(勘解由小路)朝臣云々、禁中御逆修事凡無本式、仙洞常事(也)、然者可被経御沙汰歟、只可為蜜々儀之由去年御沙汰了、当年又其分也、修善之道不可似他事、□□定加納受、神明可添和光者哉、□…□万歳之、叡運、二世御願、何不成就哉」『建内記』一p.184
1428.06.16正長元年六月十六日時房、浄華院長老等熈香衣着用に付き三宝院満済准后と談合。「浄華院長老香衣著用御免事、談合准后、尤可然之旨被示之、但今日赤口舌日、追可有左右云々」(香衣云々は触れないが、十九・二十日にも会っている。)『建内記』一p.193
1428.06.17正長元年六月十七日称光天皇、御逆修の為如法念佛を修すべきこと、浄華院等熈に命ず。同月十一日条参照。「禁裏去年以来連々有御有増、近日可被行如法念佛事也、日次来廿一日、(在方卿内々注申云々)是御逆修内々 叡願也、於浄花院可被勤修之、惣用万疋今日下行之、三条公保大納言承之、以予被仰住持上人畢、寺家請取状直付三大許了」『建内記』一p.196
1428.06.18正長元年六月十八日今日向浄花院言談、香衣事、『建内記』一p.195(十七日条)
1428.06.19正長元年六月十九日時房、外祖母の正忌を営み、良円房を招いて看経。『建内記』一p.198
1428.06.21正長元年六月二十一日本日より廿九日まで称光天皇による御逆修如法念佛が浄華院にて行なわれる。本尊が禁中より浄華院へ移される。時房、「宗門之光華也」と評す。「依 禁裏御願、自今夜於土御門室町浄華院被始行如法念佛、竊令抽逆善之 叡情給、御本尊(木像、金色、)阿弥陀三尊并黄金阿弥陀像(各在厨子)、今日自 禁中被渡寺家、修中可奉安置云々、来廿八日結願赤口舌日也、令延行廿九日可け結願之由被仰下、惣用万疋、先日已下行了、住持等熈上人依於敬(帰カ)依及此御修善、宗門之光華也、蓋無量寿覚王之冥助有馮現當御願何不成弁哉、幸甚々々、初夜之程予向日没・初夜等了長老上人有啓白之儀、(唄・散花如例、)『建内記』一p.213
1428.06.23正長元年六月二十三日時房、浄華院の如法念仏へ詣で、等熈と浄土宗の正流について談ず。「向浄花院、聴聞如法念佛日中時了、今日謁長老、彼宗正流間事談之、子細追可記之、」『建内記』一p.214
1428.06.24正長元年六月二十四日時房、浄華院蔵の授手印を拝見。「向浄花院、終日閑談、彼宗相承次第被談之、予依異于他、代々授手印然阿(鎌倉上人)、与禮阿(法光明院然空上人)、并開山向阿上人与第二玄心和尚被聴拝見、宿因之至、懐感無極者也、前住玄公上人辞世頌拝見之、親筆如新添恋慕之思也 其頌云、阿弥陀佛 円念一口 洪(本)願力故 円念一口 十万跬歩 黒谷戒法唯受一人正流事、玄公上人御遺書、(被与当住等熈上人、)同拝見之、当住香衣著用事、予可申沙汰之由存之、仍如此事等聊出不審之故也、他流誠難比肩事也、珍重々々」『建内記』一p.215(「柳原家記録」『大日本史料』康安元年三月二十七日条)
1428.06.27正長元年六月二十七日時房、招かれて浄華院の如法念仏(称光天皇逆修)を聴聞。「今日依招引向浄花院、令参会三条大納言公保、有点心事、次斎食、次如法念佛聴聞之、予終日雑談、納涼了」『建内記』一p.220
1428.07.20正長元年七月二十日称光天皇没。
1428.10.16正長元年十月十六日カ時房を等熈がおとなう。室町殿(義教)の渡御が近くある旨云々。「浄花院来臨、室町殿渡御可為来廿日云々」『建内記』二p.238
1428.10.17正長元年十月十七日カ時房、室町殿渡御が決まったことについて浄華院を訪ねる。「向浄花院、賀渡御必定事、報土庵参会」『建内記』二p.239
1428.10.19正長元年十月十九日カ時房、室町殿渡御について浄華院を訪ねる。「向浄華院、室町殿明日可有渡御云々、大営之時分也、半更退帰」『建内記』二p.251
1428.10.20正長元年十月二十日室町殿(足利義教)が浄華院を訪れる。青蓮院門跡時代に何度か訪れているが、還俗してからは始めて。「室町殿渡御浄花院也。御坐門(跡之時連)々渡御也、御俗躰已後初度也、」(その日の内に帰る)『建内記』一p.251
1428.10.20正長元年十月二十日時房、夜になって浄華院を訪れ、室町殿渡御の首尾を確認する。「入夜向浄花院、今日御成無為無事也、快然云々、」『建内記』一p.253
1428.10.26正長元年十月二十六日時房、浄華院にて称光天皇卒哭御忌の如法念仏を聴聞。称光天皇宮人・紀伊局五千疋の施入をもって修せしめた法会。(来月一日が御忌)客殿をもって道場となし先皇の臨終佛(木造阿弥陀三尊)を本尊となし、行法衆廿一口。南面客殿をもって位牌所となし修中毎日御霊供、三條大納言公保、岡崎範景らも聴聞。『建内記』一P.264(『大日本史料』「史料稿本」)
1428.10.26正長元年十月二十六日義教(義宣)、紅葉御覧のため「花頂僧正定助坊」へ渡御。『建内記』一P.264
1428.10.27正長元年十月二十七日今夜、時房、浄華院に詣で如法念仏を聴聞。位牌前で焼香。紀伊局に謁見し法会の懇志を謝す。『建内記』一P.265
1429.06.09正長二年六月九日義教、時房の申次により浄華院等熈の香衣着用を推挙する。時房、その由縁について記す。「浄花院長老等熈上人、香衣着用事、為門徒之懇款、予依当時之由申入之所、今朝三宝院准后披露、蒙 裁許、云当時云後代、一室之眉目此事也、時ー(房)執申之条無相違条、面目此事也、今夕向門跡之時准后承之、直罷向寺院示住持、触門徒了、早令着用可参 室町殿之由指南了、此事盧山寺者西山之一流也、鹿苑院殿(義満)御代勤渡唐御使之時(応永十年盧山寺明空明使になる)被聴香衣、于今住持之人着用也、浄花院者鎮西一流之正脈也、而依無扶持之輩衣鉢似有勝劣、為上人(源空)上足之弟子聖光上人之稟承異于他之処、不便之上、戒法又黒谷一流正統也、元广・法勝已着之、是又参帝戒師之故歟、等熈上人 称光院御知識也、其寄尤重者哉、誰謂被拠哉、彼是有存旨執申了、無為自愛々々、住持令迷惑、衆僧令歓喜者也、雖非可依裳衣(衣裳)、添世俗之信仰、為勧若輩之稽古也、可云興隆之因縁者哉、前住定玄上人予叔父也、蒙毎事之扶助養育無比類、聊似報彼恩者哉   祖父(仲房)祖母・亡父両代臨終善智識事、浄華院敬法上人也、三衣一鉢同前、亡父出家師同敬法上人也、剃髪役彼当住等熈上人也、亡母同前、又亡母臨終善知識等熈上人也、  定玄上人者祖父御息、先公御弟也、亡母并予円頓戒師匠也、予自少年養育恩山是高、当住上人者定門者、敬法上人之弟子、定玄上人同寮也、戒法并住持附属者定玄上人之所許授也、由緒之趣如此、先公者初妙喜(建仁寺妙喜庵)円月中厳和尚之弟子也、終帰浄土宗、於浄花院遂素懐、以敬法上人為師匠也」『建内記』二p.35
1429.06.11正長二年六月十一日"時房、等熈の香衣着用御免を喜び、三宝院准后満済の書状に自らの書状を添えて浄華院に遣わす。「参 室町殿直垂大口如例   有御対面、浄華院長老香衣事執申入之処、上裁無相違、忝畏入之旨申入之、門徒面々畏申旨、同申入之、早令著用可参上之旨申了由言上了、時宜快然、畏悦之外無地、三宝院准后消息加銘送寺家、可為後代之重宝之故也、今日時房先参申、畏由之条可然候之旨、昨日申談之処、以九日々次有彼書状也、伝申賢長僧正之処、有直書者也、三宝院准后状 浄華院長老香衣著用事無相違之条、一宗之光華、諸人美談候歟、真実々々珎重候、殊御執達之眉目、旁吉兆千万候、兼又可令申入御礼事、尤可然候、可被献御剱事可被略之条、宜候哉、事々猶以参会可申承候也、謹言、 六月九日 判万里小路大納言殿 三宝院准后消息如此候、加銘進置候、可為寺門之重宝候歟、今日時房参事申談之処、可然之由指南之間、参仕候、御沙汰之次第畏入候、門徒面々被畏申之趣、同申入了、早々御著用可有参上旨言上候き、旁快然珎重歓喜候外、無他候、事々猶期参拝候、恐惶敬白 六月十一日 時房 浄花院 侍者御中」清浄華院文書「建内記抜書2」
1429.07.10正長二年七月十日浄華院仏殿上棟。方々より寄付、室町殿もこれを賀し、仙洞(後小松院)より女房奉書が出され寄付があった。「浄華院仏殿上棟也。造営以後未遂此節、依室町殿御奉加所周備也。仏壇同致沙汰云々。早旦上棟之時分予引送馬者也、月毛、鞍置、当座引廻之、以代物二百疋内々渡之了、其外女性等面々分百疋、依師弟致賀禮、国継(斉藤氏。万里小路家家司)馬当座一疋出之、(代百疋、内内渡寺家云々)、後聞、自仁和寺宮(永助親王)被引御馬、置鞍、其外自所々引之云々、自室町殿直向寺門賀之、仰 自仙洞有女房奉書、被遣御馬於寺家、但代二千疋折紙也、則傳進之、当代之眉目、万歳之佳瑞、名刹相兼、門中成御祈祷之勇之由、長老等熈上人并門中面々畏申之趣種々奏聞了、長老追被参申者也、殊更御結縁之処如比申、御本意之由有敕答、今夜寺家送餅已下、称祝着之物、賞翫祝着了『建内記』二p.66(『古事類苑』宗教部四十二 吉川弘文館 p.383)
1429.07.11正長二年七月十一日浄華院等熈、時房を訪う。「浄華院長老来臨」『建内記』二p.69
1429.07.13正長二年七月十三日時房、毎年の通り盆礼のため一族の墳墓に詣でる。浄連華院、安養院、白蓮社、栖賢閣、新善光寺、誓願寺など墳墓や位牌、遺骨安置場所などを巡る。寺家(浄華院?)へは盆供物を送る沙汰。『建内記』二p.74
1429.07.15正長二年七月十五日時房、盂蘭盆供を行ない、浄華院等縁の寺々へ盆供を送る。「盂蘭盆供也、任例供備珍膳手向荷水、此蓬屋之儀也、其外兼日送寺家、浄蓮華院・白蓮社・浄華院・安養院・新善光寺等也、晩陰供水又如例、」『建内記』二p.75
1429.07.15正長二年七月十五日浄華院にて施餓鬼が行なわれる。「今日浄華院施餓鬼聴聞了、於称光院殿并先師御影前焼香了、次謁住持上人、次帰家、」『建内記』二p.75
1429.07.2正長二年七月二日時房、浄華院を訪れる。「向浄華院言談、入夜帰畢」『建内記』二p.44
1429.07.27正長二年七月二十七日時房、賢如・良円(浄蓮華院僧カ)を招き自宅にて称光院追善のため仏事を行なう。『建内記』二p.78
1429.07.4正長二年七月四日時房、母の忌日のため等熈ら僧衆を招き法事を行なう。「先妣御忌日也、浄華院長老(香衣之後於比亭初有焼香、)無量寿院(良意)・福聚院・良円房(浄蓮華院)・教悟喝食入来、施物追可致沙汰也」『建内記』二p.53
1430.02.00永享二年二月日越前西福寺が公方御祈願所ならびに寺領安堵の御判を頂戴した事に関して、華開院良秀・浄華院等熈が連名で置き文をつかわす。西福寺文書「(浄華院等熈置文)」(福井県文書館)
1430.02.04永享二年二月四日時房、母の忌日のため僧衆を招き法事を行なう。「先妣御忌日也、延屈浄侶(良意上人(無量寿院)・熈順大徳・良円房・僧乗大徳・教悟喝食、)行法事、祭典如例、点心・斎食等也、施物追沙汰送之、」『建内記』二p.102
1430.02.06永享二年二月六日時房、嗣房御忌日のため浄華院にて法事をおこなう。「先公(嗣房)御忌日也、来八月六日三十三回御遠忌也、仍当年殊励追修之志者也、毎月於浄華院諷経如例、又今日延屈玄珠大徳・定熈大徳・僧乗大徳・等胖大徳等、行廿五三昧、御影前祭典、衆僧前斎食等致其沙汰者也、施物追可沙汰送之」『建内記』二p.103
1430.02.17永享二年二月十七日浄華院等熈、時房を訪う。「今日浄華院長老来臨、有茶礼事、彼張行之」『建内記』二p.115
1430.02.27永享二年二月二十七日時房、無量寿院方丈(良意)に馬代と仏事料を送り折紙を遣わす。「修中無為珍重候、一両日神事之子細候間不及聴聞候、無念候、今日天気快晴、殊以目出候、唱導御床敷察申候、雖左道之至候馬代付進折紙候。御仏事料一紙同進置候、可得御意候、済實可点吉曜候、此□候、事々期参賀候由可有御意得候、恐々敬白、 二月廿七日 時房 無量寿院方丈 馬代弐百疋 参百疋」『建内記』二p.127
1430.02.27永享二年二月二十七日無量寿院良意、時房の寄進を受けて礼状を送る。「御書入見参候、只今僧堂出仕之間、先申とて候、折紙二通被下候、畏入候、以之今日儀以下可満之候、畏入候由申され候、一両日無御出候、無念候、天気誠無二候、悦喜共候、唱導日中以後候、不可有御結縁候哉、返々無念之至極、尚々可参申入候、長老(等熈)御報自是可被申之由可有御披露候、恐々謹言、 二月廿七日  良意」『建内記』二p.127
1430.12.09永享二年十二月九日足利義教が浄華院末寺の越前西福寺を祈願寺となすべき旨の御教書を出す。西福寺文書「(足利義教御判御教書)」(福井県文書館)
1430.12.09永享二年十二月九日足利義教が先例によって浄華院末寺越前西福寺の寺領を安堵する。西福寺文書「(足利義教御判御教書)」(福井県文書館)
1430.12.11永享二年十二月十一日時房、浄華院を訪れる。松林庵屋根修理。「次向浄華院之処、松林庵上葺被加修理、不存寄之紹隆、可悦々々、次帰家」『建内記』二p.185
1431.02.04永享三年二月四日時房、母の忌日のため法事をするが昨日より神事(本命星供を淨蓮華院方丈に頼む)の為招僧に及ばず云々(当記事後半判読不能)『建内記』二p.202
1431.03.02永享三年三月二日時房、浄華院に訪れる。「今日向浄華院、毎事申承者事、」『建内記』二p.206
1431.03.06永享三年三月六日時房、父嗣房の忌日のため、潔斎、浄華院にて諷経。「先公御忌日也、潔斎如例、祭典致誠者也、浄華院諷経如例、」『建内記』二p.210
1431.03.06永享三年三月六日時房、清和院、誓願寺、浄華院などに参詣。「参詣清和院・誓願寺、次向浄華院、半更帰宅」『建内記』二p.211
1431.03.09永享三年三月九日夕、時房、浄華院を訪ねる。等熈、明旦故良信上人七回忌結縁のため越前西福寺に下向の由。「今夕向浄華院、明旦可有下向越前西福寺云々、故良信上人七年如法念仏為結縁云々」『建内記』二p.214
1431.03.18永享三年三月十八日時房、諸寺院に参る。「参詣清和院・東北院・川崎・皮堂・誓願寺、向西雲庵・慶雲庵等」(翌日から暫く代官を遣わす)『建内記』二p.221
1431.03.20永享三年三月二十日時房、浄華院を訪れ尾張六師荘のことを談ず。「向浄華院談六師荘事」『建内記』二p.222
1431.03.22永享三年三月二十二日時房、浄華院に訪れる。「向浄華院、参会房能僧正者也」『建内記』二p.223
1431.12.18永享三年十二月十八日時房、浄華院において興福寺学侶衆徒寺官尭尋と対面。「興福寺学侶衆徒寺官尭尋法印(号清浄院)来、依雑掌快筭法眼告兼約、於浄花院□(対カ)面、上御所御移徒事賀礼也、早可披露之由答了、今日御衰日也、明日可申入也、同示此旨了」『建内記』二p.242
1434.02.14永享六年十二月十四日清祐法眼(?)記録に「等持寺御八講、為一座務御出仕、自浄花院御出」とある。文明二年六月条に抜粋。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」五十五p.437
1434.03.15永享六年三月十五日「故清祐法眼之記録」に十五日室町殿延年のため「寺務」(?興福寺?)御上洛、当日「自浄花院御出」とある。「尋尊大僧正記」文明二年六月条に抜粋。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」五十五p.436
1434.03.15永享六年三月十五日夜、室町殿で延年があり、大乗院尋尊、浄華院より御出仕。『大乗院寺社雑事記』「大乗院日記目録」二p.332
1436.05.19永享八年閏五月十九日後崇光院(伏見宮貞成親王)、公家数名とともに浄華院の風呂に入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.390)『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1436.05.19永享八年閏五月十九日後崇光院(伏見宮貞成親王)、邸に浄華院長老が参ったため前日の風呂の礼を申し、対面。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.390)
1436.06.10永享八年六月十日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に「如例」入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.393)『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1436.06.30永享八年六月三十日後崇光院(伏見宮貞成親王)、公家数名とともに浄華院の風呂に入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.399)『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1436.12.2永享八年十二月二日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に「如例」入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.432)『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1437.00.25永享九年残景二十五日叡空筆阿弥陀経裏に良秀が「清浄花院之由記」を記す叡空所持三部経(阿弥陀経)
1437.03.18永享九年三月十八日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.457)『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1437.05.5永享九年五月五日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に「如例」入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.467)『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1438.02.19永享十年二月十九日カ安養院等熈、時房に書状を送る。「等玉ハ自然罷出事も候、いか様之御用候哉、其分ハ知音存知候ハす候之由可得御意候、恐々謹言 二月十九日 等熈」(永享十一年二月記紙背文書)『建内記』二p.327
1438.02.23永享十年二月廿三日カ安養院等熈、時房に書状を送る。「誠彼事珍重候、其後ハ中/\いまた不申候、ほとを被置候て御意之分可然歟之由存候、旁期面上之由可得御意候、恐々謹言 二月廿三日 等熈」(永享十一年二月記紙背文書)『建内記』二p.327
1438.04.24永享十年四月二十四日浄華院風呂女中入。予(後崇光院・伏見宮貞成親王)違例之後未入。乃例日之間不入。男共入。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.539)『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1438.04.29永享十年卯月廿九日カ無量寿院良意、北美和荘折紙の写しを時房に送る。(永享十一年二月記紙背文書)『建内記』二p.325
1438.05.06永享十年五月六日カ無量寿院良意、医師寿阿について時房に書状を送る。(永享十一年二月記紙背文書)『建内記』二p.326
1438.05.07永享十年五月七日カ無量寿院良意、時房に五十疋進上、書状を送る。(永享十一年二月記紙背文書)『建内記』二p.326
1438.05.27永享十年五月廿七日カ無量寿院良意、時房に寺家に関する斡旋を謝す。(永享十一年二月記紙背文書)『建内記』二p.327
1438.06.29永享十年六月二十九日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に入る。「女中先沐浴。次予入。」(現刊の『看聞御記』永正11・12年分が欠けている。)『看聞御記』(続群書類從完成會編P.553)『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1438.07.14永享十年七月十四日カ無量寿院良意、時房の度々の要請を黙止できず、秘計をいたし百疋を用立てる。(永享十一年二月記紙背文書)『建内記』二p.325
1438.07.30永享十年七月三十日カ無量寿院良意、年貢算用について時房に書状を送る。(永享十一年二月記紙背文書)『建内記』二p.325
1438.12.03永享十年十二月三日カ無量寿院良意、時房に美作北美和荘年貢算用について問われ返状を送る。「以前御報畏入候、冨田方(三郎左衛門)より可給之分ハ、森本分まて候ハゝ四十貫にて候、可得御意候、両人ハ三十ニて候、御折紙も御副肝要候哉、さも候ハゝ可被下候、何様参候て毎事可申入之由可有御披露候、恐ゝ謹言、 十二月三日 良意」(永享十一年二月記紙背文書)『建内記』二p.323
1438.12.23永享十年十二月廿三日カ無量寿院良意、年貢算用について時房に書状を送る。「昨日御書畏入候、五日御儀旁目出悦喜仕候、可参賀申候、兼又被延年事ハ堅申候間可有御免候、国衙ニも被問候ハゝ少々も可被申入歟之由存候、可得御意候、先日も申候様ニ明年之北美和之足候ましき由申候、当年ニも給分四十未沙汰候間計会、方々譴責過御察候、いかヽ仕候へき、尚も延年にも申てハ見候へく候、可参申入候由可有御披露候、恐々謹言 十二月廿三日 良意」(永享十一年二月記紙背文書)『建内記』二p.323
1438.12.26永享十年十二月廿六日カ無量寿院良意、年貢算用について時房に書状を送る。(永享十一年二月記紙背文書)『建内記』二p.323
1438.12.26永享十年十二月廿六日カ無量寿院良意、年貢算用について時房に書状を送る。(永享十一年二月記紙背文書)『建内記』二p.324
1438.12.28永享十年十二月廿八日カ無量寿院良意、年貢算用について時房に書状を送る。(永享十一年二月記紙背文書)『建内記』二p.324
1439.01.28永享十一年正月廿八日浄華院良秀、時房へ書状を送る。「田舎便宜相尋候へ共、更不尋得候間不及申下候、今月中在国と申し候へハ、漸可上候哉、尓者必々可申試候、入眼之有無更不存知候、於身無等閑候、旁可参申入之由可有御披露候恐々謹言 壬(永享十一年)正月廿八日 良秀」『建内記』二p.322
1439.02.02永享十一年二月二日時房、後花園天皇に召され御前に参ず。浄華院に預けられている歴代宸記など叡覧、その順序などについて聞かれる。「次依召参御前、御学問所、被預置浄花院御文書内、御記一合ツヽ次第/\可被御覧也、以何先可被可被御覧哉之由被仰下之、延喜天暦御記已下次第/\可有 叡覧、但近代之儀先為大切歟、先後円融院御記(被号田記)、 叡覧可宜哉之由申入了、雑々御櫃内有混乱之御文書、被部類之条可然之由以次申入了」『建内記』二p.281
1439.02.04永享十一年二月四日時房、母の忌日、御霊供如例、五辻建聖院にても作善あり。『建内記』二p.283
1439.02.06永享十一年二月六日時房、父嗣房の忌日のため、御霊供。また叔父定玄上人二十五回遠忌のため、浄華院にて四十八日の別行が始まる。「故殿(嗣房)御忌日也、御霊供以内々女子為代令供之、依氏社祭礼之日也」「浄花院故東堂(定玄上人)廿五年遠忌、当来十一月廿四日、引上来月可修之、仍自今夜四十八日寺家始別行云々、連々以結縁可報謝者也」『建内記』二p.285
1439.02.11永享十一年二月十一日時房、無量寿院(良意)に招かれ成房とともに訪問、安養院等熈(浄華院前住)と参会。庭の梅などを見、初度のため小折紙二百疋を送る。大炊御門信宗(前内府)も来て自然参会、茶礼がある。終って浄華院に参詣、六日よりの別行が行われているため、日課礼讃を聴聞する。次いで住持となった良秀に謁し、方丈において御影に焼香・念仏し、帰宅。『建内記』二p.295
1439.02.15永享十一年二月十五日時房、夜、浄華院へ訪れ、涅槃会を聴聞。『建内記』二p.300
1439.02.20永享十一年二月二十日時房宅へ良円房、等胖房が訪れる。(祖父季房・両聖(後小松院・称光院)忌日のためか?)『建内記』二p.304
1439.02.21永享十一年二月二十一日浄華院仁王経会始行。時房宅へ良円房、等胖房が訪れる。(理由不明)『建内記』二p.305
1439.02.24永享十一年二月二十四日玄定上人の御霊供が行われる。時房、焼香のため、先日(六日)より始まった別行が行われている浄華院を訪れ、仏殿・御影前などで看経念仏。ついで、住持上人(良秀)に謁い、建聖院よりもらった珍羹(もちがし?これは室町殿が妹の法敬寺尼へ送り、さらに建聖院へ送られたものである。)などを送り、帰宅。『建内記』二p.308
1439.02.25永享十一年二月二十五日時房、妙忍尼の七回忌を行う。賢如房・良円房らが法華経を読み霊供、種々の回向を勤める。『建内記』二p.309
1439.02.27永享十一年二月二十七日浄華院仁王経会結願。『建内記』二p.309
1439.02.28永享十一年二月二十八日時房、浄華院より筑紫の人紀伊守藤原忠豊の掃部頭任官の取次ぎを頼まれるが、「此官事難申沙汰事也」として返答する。(返答書状文あり)『建内記』二p.316
1439.02.28永享十一年二月二十八日時房、思いがけず手に入れた藤一本を庭前に植えたところ、ある人が藤は不敬に当たるおそれがあるので新しく植えるものではない(「藤ハ初而不植之、不敬之時有其恐之故也云々」)、と云うので浄華院の鎮守に送り植えてもらうことにした。五社祀られる内に春日神もいるためである。住持(良秀)より慇懃に返報がある。「植藤一本給候、鎮守寳前可生長候、神感勿論候、目出候、又以前御状委細拝見候、即御状を田舎へ副下候、無御等閑候、畏入候由可有御披露候恐々謹言 二月廿八日 良秀」『建内記』二p.316
1439.02.29永享十一年二月二十九日浄華院、時房へ仁王経巻数を届ける。「仁王経巻数等到来」『建内記』二p.317
1439.06.02永享十一年六月二日仲房御遠忌。時房、浄蓮華院及び松林庵に施入し、仏事を修す。『建内記』二p.345
1439.06.04永享十一年六月四日時房、宣下案一合、(播磨国美嚢郡)吉川庄事一合、以上二合の文書を浄華院経蔵に預ける。住持良秀より返報あり。『建内記』二p.347
1439.06.06永享十一年六月六日嗣房の御忌日、御霊供養如例。建聖院・松林庵また例ありや、看経、念仏の他なき事。『建内記』二p.347
1439.07.05永享十一年七月五日(義教?)浄華院へ御成。(相国寺?)長老御相伴。御給仕は当寺(相国寺)より参る。浄華院前住松林院にお目にかかる。また普勧寺にもお眼にかかる。すなわち十緡(銭刺し)を献ず。また大愚和尚行脚事を披露。『蔭涼軒日録』p.96
1439.07.06永享十一年七月六日(足利義教?)、栗棘庵(東福寺)へ御成。浄華院の梅木を来秋献ずべきの旨、使命こうむる。『蔭涼軒日録』p.96
1439.06.15永享十一年六月十五日渇食玄周、時房を訪ねる。『建内記』二p.354
1439.06.15永享十一年六月十五日時房、唐橋在豊に書いてもらった越前西福寺一切経蔵の勧進帳を受け取る。この勧進帳は浄華院玄剛房より頼まれたもので、浄華院に送る。「大内記(唐橋)在豊朝臣入来、西福寺一切経事、勧進帳和字分、重所望事、よって以先度漢字成和字書之持来之、此事自玄剛房被示之、然而就近所賜之云々、送浄華院」『建内記』二p.354
1439.06.24永享十一年六月二十四日時房、安養院等熈と参会、(義教の)渡御が来月五日と聞いて浄華院へ向かう。浄華院にてまず御影前にて念仏、ついで住職に謁し、経営の日数なく計会、ついで帰家。『建内記』二p.363
1439.08.12永享十一年八月十二日正親町三条公雅十三回忌のため、上御台(正親町三条尹子)の沙汰により、聖護院にて庭儀曼荼羅供、泉涌寺にて五部大乗経頓写など各寺々で法要があり、浄花院おいてもこの日まで(至今日)七日間の如法念仏が行われた。他にも作善が行われる。『師郷記』(三 史料纂集 p.20)
1439.08.13永享十一年十月二十八日時房、猶子の五智輪院法印勝済、その弟子同法、猶子法眼房済の権少僧都について、実父田中法印融清より無量壽院良意をして頼まれ、蔵人左少弁に内奏を依頼、勅許あり。口宣案到来。『建内記』三p.10
1440.01.01永享十二年正月一日時房、松林庵に正月三が日、七日、十五日の供物を送る。『建内記』三p.14
1440.01.01永享十二年正月一日時房、浄華院(良秀)より餅を送られる。毎年の儀なり。『建内記』三p.14
1440.01.08永享十二年正月八日時房を五辻院(建聖院慈俊)と玄周らが訪ねる。年始初度の例のこどし。『建内記』三p.19
1440.01.11永享十二年正月十一日時房を無量壽院良意が訪ねる。盃杓・引出物例の如し、随身ありの事。『建内記』三p.22
1440.01.18永享十二年正月十八日時房、勝定院(足利義持)の十三回忌正忌のため等胖、玄周らを招き三部経を読誦させ、斎食を勧む。(御仏事は先年十二月に引き上げて執行、時房は独自に一昨日から精進する。)『建内記』三p.24
1440.01.28永享十二年正月二十八日時房を玄周が訪ね、受戒の日次について相談。玄周来る、かの(玄周の)袈裟大戒を受け沙門となすべき日次の事、老師等熈上人に談さるに、陰陽師にあい尋ねるべき由の答え、彼(陰陽師?)語りていわく、南禅寺馬場末に小社あり、近辺の女託して神威新たの如し、夜前かの宝前において聖深上人、等胖大徳、講問有りの事、玄周、六人の請僧となすなり。『建内記』三p.31
1440.10.02永享十二年十月二日(足利義教?)、三条殿へ御成。戒壇院(叡山?南都?)・浄華院にて来五日に「御逆修」、作善並びに勤行衆を書き立て、お目にかける。『蔭涼軒日録』p.135
1440.10.03永享十二年十月三日李瓊真蘂(蔭涼軒主)、(足利義教?に)今月の諸寺院への御成の日を伺う。来る五日、等持院・浄華院にて「御逆修」、両所へ要脚(費用)且つ百貫文遣わすべきの由仰せ出らる。『蔭涼軒日録』p.135
1440.10.05永享十二年十月五日等持院・戒壇院・浄華院にて(足利義教?)御逆修。今月よりこれ始まる。この三所各六百貫文送るべきの由、勢州(伊勢氏)をもって仰せいださる。『蔭涼軒日録』p.135
1440.10.07永享十二年十月七日(足利義教?)、逆修にかかわる三所へ寄進する。等持院戒壇院へは六百貫文。浄華院へは百貫文おくる。(「御逆修」の)一七日の分なり。漸く請け取るべきの由もうさる。故、かつ之を贈る。『蔭涼軒日録』p.136
1440.10.08永享十二年十月八日等持院・戒壇院・浄華院より寄進の「請取」が来る。(足利義教?へ)お目に懸け奉る。『蔭涼軒日録』p.136
1440.11.09永享十二年十一月九日(足利義教)、(蔭涼軒主・李瓊真蘂)へ御逆修の要脚(費用)を等持院・戒壇院・浄華院へ送るべきの由おおせ出さる。三ヶ所各一千貫文。『蔭涼軒日録』p.139(『大日本史料』「史料稿本」)
1440.11.12永享十二年十一月十二日等持院・戒壇院・浄華院より一千貫文寄進の「請取」が来る。(足利義教?へ)お目に懸け奉る。『蔭涼軒日録』p.139
1440.11.30永享十二年十一月晦日(足利義教?)御逆修満散。『蔭涼軒日録』p.140
1440.12.02永享十二年十二月二日(蔭涼軒主・李瓊真蘂)、等持院・戒壇院・浄華院御逆修の作善並びに納下帳を(足利義教に?)、被献。然りと雖も御覧なし。『蔭涼軒日録』p.140(『大日本史料』「史料稿本」)
1440.12.03永享十二年十二月三日浄華院、(御逆修餘銭寄せらるを)御礼のため(蔭涼軒へ)まいらる。『蔭涼軒日録』p.140
1441.01.22永享十三年正月二十二日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.600)『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1441.02.19嘉吉元年二月十九日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に「如例」入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.604)『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1441.03.19永享十三年三月十九日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に入る。(嘉吉元年二月十九日条の誤りか?)『看聞御記』『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1441.07.06嘉吉元年七月六日伊勢守貞国入道<是又一昨日於浄花院得度云々>『建内記』(『大日本史料』)
1441.08.07嘉吉元年八月七日故義教の室三條尹子、夢想の告により如法念仏を清浄華院にて修し、義教の冥福に資す。『建内記』(『大日本史料』「史料稿本」)
1441.09.13嘉吉元年九月十三日故義教の室三條尹子、夢想の告により如法念仏を清浄華院にて修し、義教の冥福に資す。
1441.09.15嘉吉元年閏九月十五日無量寿院良意が時房を訪ね、近日魔障がある、心許ないと告げる。「無量寿院(良意)来臨、浄花院邊事、近日有魔障欤、無心元之由申承了、無為祈念此事也。」
1441.09.16嘉吉元年閏九月十六日"金戒光明寺「金戒寺来臨、浄花院落書事(去妙行時分)、聖忻(金戒寺弟子也)、沙汰之由、所意発言、仍可及湯起請之由聖忻歎申之、尤可有糺明由所存也云々、事儀不穏便、老少無為可然事也、住持尤可被宥仰事欤、無其儀之条珍事也」"『建内記』(『大日本史料』)
1441.11.24嘉吉元年十一月二十四日浄華院において「故東堂(定玄)御遠忌也」、昨日は引上の論議あり、今日より天台講並びに普広院忌云々。時房、定玄影前にて焼香誦経念仏、普広院牌前にて念誦。『建内記』(『大日本史料』)
1443.02.20嘉吉三年二月二十~二十二日後崇光院(伏見宮貞成親王)、南朝小倉宮の叛逆の噂のため二十日の夜、楽器や大事具足を「一條土蔵(敷地)」へ預けるが、噂が本当であるとの情報から御所周辺が騒がしくなり、二十二日になって預けてあった楽器を浄華院の文庫へ、文書を伏見土蔵へ移す。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.646)「将軍家『御成』について(四)」『金鯱叢書』第四巻 p.566
1443.06.14嘉吉三年六月十五日浄花院にて赤松貞村(法名性貞)、普光院義教の三夜の御仏事を修し、本日結願。今日より七夜政所伊勢入道(貞国)毎時千遍念仏を修し、結願に論義、時房に願文を書くよう依頼有り。『建内記』(『大日本史料』)
1443.02.26嘉吉三年十二月二十六日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に入る。「旧月精進如例。先女中入」。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.723)『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1443.05.05嘉吉三年五月五日後崇光院(伏見宮貞成親王)、公家数名とともに浄華院の風呂に入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.668)『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1446.01.16文安三年正月十六日中原師郷、高倉永豊宿所に赴き、浄華院長老と参会。(高倉永藤の年忌法要か?)『師郷記』(四 史料纂集 p.55)
1447.3.17文安四年三月十七日3月17日から24日までの7日間、如法念仏(第九世定玄上人の33回忌)『建内記』(『大日本史料』)
1447.3.21文安四年三月二十一日如法念仏(第九世定玄上人の33回忌)この日、法会後に唐人が花火を催す。『建内記』(『大日本史料』)
1447.0.0文安四年秋中原師郷、如法念仏を修させる。(文安五年正月十六日条に「為今日」とあり、高倉永藤追善のためか)『師郷記』(三 史料纂集 p.208)
1448.01.16文安五年正月十六日高倉永藤の十三回忌法要があり、金戒寺長老(聖深・浄華院前住)が二十五三昧、諷誦を修す。『師郷記』(三 史料纂集 p.208)
1458.04.29長禄二年四月二十九日(大乗院)経覚、(大聖院)斎尊の上洛の伝馬をもって教法院玄刹に下向を促す書状を送るが、浄華院長老深秀が退院して寺領の件で揉めているとして断られる。『経覚私要鈔』(第四p.15史料纂集)
1458.08.21長禄二年八月二十一日浄南院清承法橋の子・浄華院良俊が、(在南都の大乗院経覚へ)僧扇五本、杉原十丁などを持ち来る。対面のあと盃を進め、絵一双を送る。『経覚私要鈔』(第四p.57史料纂集)
1459.01.15長禄三年正月十五日良秀により「本寺淨華院霊寳之目録」(真名本「浄花院霊寳縁起」)(雑四『浄華院由緒記』収録)が記される。「浄華院由緒記」雑四
1459.01.25長禄三年正月二十五日良秀により仮名本の「浄花院霊寳縁起」が記される。大行寺(下京区仏光寺門前)に写本が所蔵される。「浄花院霊寳縁起」大行寺所蔵
1462.06.13寛正三年六月十三日来る二十日、(足利義政)浄華院御成につき、当寺(相国寺)より御給仕出べきのこと、並びに愚老(蔭涼軒主・李瓊真蘂)御相伴参るべきの事、勢州(伊勢氏)之を知らされ、すなわち之を伺う。『蔭涼軒日録』p.348
1462.06.19寛正三年六月十九日(蔭涼軒主・李瓊真蘂)、来る二十日(足利義政)浄華院御成につき、知らせ奉る。『蔭涼軒日録』p.350
1462.06.20寛正三年六月二十日(足利義政)浄華院御成。浄華院御成並びに御点心の事、報せ奉る也。御成。御点心。住持並びに某相伴に召し加えらる也。御小袖三重、御扇子十柄、献ぜらる也。前住阿弥陀院御目に懸からるなり。香合一箇。杉原十帖之を献ず。(中略)阿弥陀院進上の杉原を改め、小高檀紙になす也。常住方に加え小高檀紙をもってなり(?)。『蔭涼軒日録』p.350
1462.06.27寛正三年六月二十七日(足利義政)、浄華院御成。進物の請取を御目に懸け奉る。『蔭涼軒日録』p.352
1462.08.12寛正三年八月十二日等熈上人、後花園天皇より国師号を賜う。後花園天皇勅書『新撰往生伝』三『日本仏教史』第五巻中世篇之四 辻善之助 s45 P.264 P.262
1462.11.17寛正三年十一月十七日大乗院(興福寺)尋尊へ京都浄花院松林庵(小林アン)僧玄周坊(玄同坊)下向、「長老坊上フキ勧進」の事、「任例被申之云々、其旨自寺務蒙仰者也」。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」二十九p.256
1462.11.18寛正三年十一月十八日大乗院尋尊へ浄花院の松林庵(小林庵)来る。百疋持参。松林庵(玄周)は、万里小路内大臣時房の子(玄周)である。「長老坊上葺事故下向了」。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」二十九p.256
1463.07.05寛正四年七月五日大乗院尋尊上洛中。二条殿へ参り、浄花院へ向かい、方丈と対面。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」三十三p.332
1466.02.25文正元年2月25日25日 将軍義政夫妻、飯尾肥前守之種邸へ御成り。観世の能13番「磯の童・田村・飛鳥川・邯鄲・三輪・籠太鼓・景清・杜若・放下僧・岩船(音阿弥)・重荷・猩々・実方(音阿弥)」を見る。禄物万疋余を舞台に積み、別に大夫又三郎に二千疋を給う。楽屋は浄花院塔頭清涼庵を借用す。鈴木正人編『能楽史年表』
1466.04.19文正元年四月十九日浄花院の深心院、南都へ下向。「弉舜寺主坊」に宿る。深心院は伊勢守の兄弟である。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」四十五p.59
1466.05.27文正元年五月二十七日来月九日(?)、伊勢守(伊勢貞親)の老父十三回忌が浄華院深心院で営まれる予定であると記される。『蔭涼軒日録』p.653
1467.01.02文正二年一月二日御霊合戦。応仁の乱勃発。
1467.06.13応仁元年六月十三日(十一日か?)赤松勢が浄華院に陣取る。(応仁の乱)所々で赤松勢高名が討死。大乗院尋尊、「希代之事也」と記す。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」四十九p.200
1467.09.13応仁元年九月十三日応仁の乱により公家や武家の屋敷とともに浄花院が焼かれる。『宗賢卿記』『戦国期公家社会の諸様相』中世公家日記研究会 p.231
1477.11.20文明九年十一月二十日幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ応仁の乱が終結する。
1479.07.06文明十一年七月六日浄華院殿、御所へ樽を持参し御参り。「しやうけ院殿を(よ?)り。御たるをもたせられて御まいり。」「お湯殿の上の日記」『続群書類従・補遺三』p.92
1479.12.29文明十一年十二月廿九日甘露寺親長、前年に浄華院より掠めていた正親町の居住敷地(東西十三丈四尺、南北十四丈五尺)を「歎申入」があったので返還する。『親長卿記』(第三p.117史料纂集・『大日本史料』p.852)『京都中世都市研究』高橋康夫 s58 p.295
1480.08.05文明十二年八月五日京都浄華院、正親町烏丸の敷地を安堵せん事を請う。()「京都御所東山御文庫記録」(甲百十○山城 諸寺 浄花院)(『大日本史料』)
1480.08.05文明十二年八月二十五日浄華院に隣接した薬師堂が敷地の安堵を謝す。『御湯殿上日記』「京都御所東山御文庫記録」(『大日本史料』)
1480.09.15文明十二年九月十五日土一揆が起き伏見殿(邦高親王)の門前に火を放ち、禁裏騒動。同じ時分浄花院へ押し寄せる。甘露寺親長も方々で土一揆が起きているとして夜、参内する。『親長卿記』(第三p.158 史料纂集)『大日本史料』
1482.04.24文明十四年四月廿六日浄華院住持、御所へ御参り、ご対面あり。「しやうけ院のちうち御れいにまいらるる。御たいめんあり。」「お湯殿の上の日記」『続群書類従・補遺三』p.252
1482.07.04文明十四年七月四日「しやうけん院殿よりおもしろきふせゐの花まいる。大納言殿へまいらせらるヽ。」「お湯殿の上の日記」『続群書類従・補遺三』p.260
1482.07.25文明十四年七月廿五日「ニ十五日いつもの御れんかあり。おとこたちおもしにてくこんまいる。ふしみ殿へはく御まいり。むろまち殿より御まな三色まいる。大納言よりたんは一かまいる。すけ殿より山と一こまいる。めいほう院よりあふみ三十こまいる。しやうけんゐんへ十こまいる。あすか井に廿つかはさるヽ。」「お湯殿の上の日記」『続群書類従・補遺三』p.263
1482.10.18文明十四年十月十八日談義あり。浄華院も参加。「十八日。たむきあり。ちやうを(もカ)ん寺(にカ)前内ふもしこう。ちやうらうに御からわけの物にてしんしゆ所にてくこんたふ。とさま。まいまいのおとこたちにもたふ。しやうけ院殿御申の事。御うれしさとて御たるもたせられて御まいり。つねの御所にて三こんまいる。」「お湯殿の上の日記」『続群書類従・補遺三』p.276
1482.12.07文明十四年十二月七日宮中にてなにか行事、「しやうけ院もけふは御まいり。」「お湯殿の上の日記」『続群書類従・補遺三』p.282
1483.03.21文明十五年三月廿一日「しやうけ院の前ちう御れゐにまいらるる。御かうはこ。十帖まいる。」「お湯殿の上の日記」『続群書類従・補遺三』p.300
1485.03.29文明十七年三月廿九日「廿九日。御ゆめす。おすもし御まいり。しやう花院のたうちう御れい申さるヽ。御たいめんあり。」「お湯殿の上の日記」『続群書類従・補遺三』p.394
1485.07.17文明十七年七月十七(八)日中院通秀へ、浄花院より三条実隆、勧修寺経茂、来飯。『十輪院内府記』(p202)
1485.09.11文明十七年九月十一日中院通秀へ浄花院来臨、いささか法談。『十輪院内府記』(p209)
1485.09.15文明十七年九月十五日中院通秀、浄花院より菊花、柿籠などを恵まる。『十輪院内府記』(p209)
1485.09.29文明十七年九月二十九日浄華院、後土御門天皇より三尋木の奉加をうける。「廿九日。しやうけ院へ御ほうかに。みいろ木五くつみつかはさるヽ。」「お湯殿の上の日記」『続群書類従・補遺三』p.420『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004
1485.11.13文明十七年十二月十三日真盛、甘露寺親長邸で公家・女房衆に円頓戒を授ける。親長、仏具・本尊・真盛の随身・打敷などを浄華院から借り受ける。真盛は八日から宮中長橋局などで往生要集の講釈を行っている。『親長卿記』『御湯殿上日記』『実隆公記』など『訳注 真盛上人往生伝記』天台真盛宗宗学研究所出版部 1970
1485.13.26文明十七年十二月廿六日浄華院、歳末のお礼に御所へまいる。「さいまつの御れいにろさん寺、しやうけゐん。ちをん院。そんたい寺。大とく寺まいらるヽ。」「お湯殿の上の日記」『続群書類従・補遺三』p.430
1486.01.15文明十八年正月十五日中院通秀、恒の如く粥など(正月の)祝い箸を終える。浄華院玄周来臨、「柳一荷・両種等也」。夜第三の毬杖がある。『十輪院内府記』(p219)
1486.01.18文明十八年正月十八日中院通秀、浄華院に行こうとすると明日来るべしの由。「欲向浄花院。明日可来之由、於 路次被示、仍自西洞院辺帰了」『十輪院内府記』(p219)
1486.01.19文明十八年正月十九日中院通秀、浄華院へ向う。「向浄花院、種々活計、声明養耳了」『十輪院内府記』(p219)
1486.07.29文明十八年七月二十九日大乗院尋尊上洛中。御拝賀の行列があり、「浄花院之小門之南」に「若宮御桟敷」が立つ。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」百二十四p.470
1486.07.29文明十八年七月二十九日将軍(義教)の御拝賀の行列があり、「伏見殿親王(邦高親王)」が「浄華院土御門室町」に御桟敷を構え見物する。『長興宿祢記』(『大日本史料』)
1486.09.17文明十八年九月十七日春日局(評定衆攝津氏出身)が浄華院へ人を進め、晩に及んで中院通秀へ彼の寺より加賀守富樫氏(政親)、吉岡氏へ遣わす状など到来。(春日局袈裟進人於浄花院、及晩自彼寺遣加州状等到来、富樫・吉岡)(八月四日に中院通世が富樫を訪ね、九月九日にはその返礼に富樫が中院通世を訪ねている。)『十輪院内府記』(p242)
1486.2.16文明十八年二月十六日中院通秀、入江殿へ参り談義を聴聞する。浄華院玄周が阿弥陀経を申される。『十輪院内府記』(p222)
1486.2.16文明十八年二月十六日浄華院玄周、入江殿に於いて阿弥陀経を講ず。実隆聴聞し、「弁説殊勝」と評す。『実隆公記』
1486.6.3文明十八年六月三日中院通秀に浄華院長老と松林院玄詠が喝食を伴い訪れ、通秀の養子について話す。(浄華院長老并松林院玄詠、喝食同道入来、為予養子之由也、樽随身、勧三献了、西御庵(三時知恩寺智周尼)入御、御口入之事也)『十輪院内府記』(p234)
1487.01.16文明十九年正月十六日中院通秀に浄花院玄周が訪れる。(少々有来客、浄花院入来、棰随身、酔倒了)『十輪院内府記』(p249)
1487.01.23文明十九年正月二十三日中院通秀、浄花院へ向い、帰路に安禅寺へ参る。『十輪院内府記』(p249)
1487.08.03長享元年八月三日今日浄花院本尊遷座なり。乱後仏殿なし。今度形如新造造畢なり。『親長卿記』"『京都・一五四七年―描かれた中世都市』 今谷明 平凡社 1988p.143 (『古事類苑』宗教部四十二 吉川弘文館 p.383)『大日本史料』
1487.08.03長享元年八月三日浄華院玄周、嘉楽門院の臨終に参仕。『実隆公記』1488か?
1487.08.08長享元年八月八日甘露寺親長、浄華院の如法念仏を聴聞。『親長卿記』
1487.09.14文明十九年九月十四日(足利義尚六角氏征伐出陣のため)、浄華院相尋ねられの条、この尋ね答えて曰く、来る十八日参賀せらるべくの由、相議り、定む。万一相違あるは、これより白入れ云々。『蔭涼軒日録』p.1087
1487.12.27長享元年十二月廿六日浄華院、御所へ歳末のお礼にまいる。「しやうけゐん、ちをんゐんさいまつ申さるヽ。」「お湯殿の上の日記」『続群書類従・補遺三』p.540
1488.01.17長享二年正月十七日中院通秀、浄華院玄周へ向、種々活計、老情を慰む。(向浄花院、種々活計、慰老情、西御庵参会、棰一荷持向了)『十輪院内府記』(p.268)
1488.01.27長享二年正月二十七日中院通秀、浄華院に招かれる。小盃酌あり。(招浄花院有小盃酌、廿四日被送棰・折等之謂也、三献)『十輪院内府記』(p.269)
1488.04.28長享二年四月二十八日浄華院玄周、勅召により参台し、阿弥陀経を講ずる。(嘉楽門院臨終知識?)『実隆公記』
1488.05.11長享二年五月十一日後土御門天皇、浄華院へ「御き(御忌?)」につき寺中の「さうゑふん(造営分)」として二千疋つかわされる。御使いは葉室教忠。執着かたじけなしとて伺候していろいろもうさる。『御湯殿上日記』"『大日本史料』 『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004"
1488.05.27長享二年五月二十七日後土御門天皇、浄華院の開山筆の本尊を拝みたきよし覚せられて、長老(玄周)持ちてまいらるる。御対面ありて御十念あり。斟酌ながら執着のよし申さるる。(『大日本史料』 その他に「證賢向阿筆」の「阿弥陀仏像」を叡覧、とあるが永享の目録では既に法然を開山としており、「開山」だけでは向阿筆の阿弥陀をさす物か分からない。)『御湯殿上日記』"『大日本史料』 『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004"
1488.06.25長享二年六月二十五日後土御門天皇、甘露寺親長に近日あるべき浄華院の講演に懸けらるべき御簾、蘆簾にしからざるかとお尋ねあり。親長、内儀の事については蘆簾なく、常に翠簾に何事候やとの由申し入れる。『親長卿記』"『大日本史料』 "
1488.6.26長享二年六月二十六日甘露寺親長へ参台御談義について浄華院へ使いがある。条々尋ねられの旨あり。禁忌詞など、委細報せる。『親長卿記』"『大日本史料』"
1488.6.27長享二年六月二十七日浄華院玄周、阿弥陀経を講ず。『実隆公記』『大日本史料』 (長享二年七月十四日条)
1488.6.27長享二年六月二十七日後柏原天皇、清浄華院住持玄周南江を召して阿弥陀経を講ぜしめる。「けふより上花院(玄周)あみたきやうよませらるる。ふしみ殿(邦高親王)・あんせん寺(観心尼)・れんき(永崇)・はんせう(等貴)御まいり」『御湯殿上日記』"『大日本史料』 『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004『日本仏教史』第五巻中世篇之四 辻善之助 s46 P.281"
1488.6.27長享二年六月二十七日午後御所黒戸にて浄華院阿弥陀経の御談義を行う。奥御座敷中隔て、東西行きへ翠簾を懸け渡し、浄華院(玄周)は東間上壇へ、他、庭田雅行、甘露寺親長、甘露寺公兼、甘露寺元長などの朝臣などが別間で聴聞。『親長卿記』池田道人「南北朝・室町期における内裏の文芸会と場の構成について」『史学研究五十周年記念論叢』日本編 1980 
1488.6.27長享二年六月二十七日浄華院長老禁裏内内において阿弥陀経を講ぜらる。『実隆公記』
1488.6.28長享二年六月二十八日27日に続き、浄華院玄周、後土御門天皇に召され阿弥陀経の購読をする。「けふもたんきあり、ふしみ殿・おか殿(大慈光院宮))・れんき御まいり」「同前御談義」『御湯殿上日記』『親長卿記』『大日本史料』
1488.6.28長享二年六月二十八日浄華院長老黒戸において阿弥陀経を講ぜらる。近臣以下祇候。主上・親王方簾中御座、女中同じく候る。『実隆公記』
1488.6.29長享二年六月二十九日27日に続き、浄華院玄周、後土御門天皇に召され阿弥陀経の購読をする。「けふもたんきあり、昨日の御人す御まいり」「今日も内裏にて御談義あり。」『御湯殿上日記』『実隆公記』"『大日本史料』"
1488.7.14長享二年七月十四日浄華院玄周、流布の病にて生年六十二歳にて示寂す。『親長卿記』"『大日本史料』 『日本仏教史』第五巻中世篇之四 辻善之助 s46 P.281"
1488.7.14長享二年七月十四日浄華院長老玄周入滅、三條西実隆、「言語道断、悲嘆無□類者也」、弥陀経の講釈はまだ終わっていないのにとする。『実隆公記』『大日本史料』 長享二年七月十四日条
1488.8.14長享二年八月十四日小槻長興、浄花院に詣で如法念仏を聴聞する。「五代之師祖」(定玄?)の三十三回忌追善のため、八日より七日間修められ、僧衆七十余人が参加している。『長興宿禰記』(史料纂集 p.225)
1488.8.15長享二年八月十五日三條西実隆、浄華院玄周に対して和尚號を与えるかどうかについて勅問せられ、和尚號が相当であると答える。『実隆公記』『実隆公記長享二年秋十月紙背文書』『大日本史料』 長享二年七月十四日条
1488.8.15長享二年八月十五日甘露寺親長、浄華院玄周に対して和尚號を与えるかどうかについて、前例などを勅問せられる。『親長卿記』『大日本史料』 長享二年七月十四日条
1488.8.19長享二年八月十九日甘露寺親長、昨日松林院より音信があり、玄周五七日に万里小路賢房などとともに焼香に参る。点心などあり、民部卿奉書の披露がある。玄周の和尚號について、例があるとして授けられる事になった。四宗(倶舎・天台・戒・浄土)兼学の由、寺家より勅裁に載せたいと申し出があるが、「不可有巨難之由」申し渡す。『親長卿記』『大日本史料』 長享二年七月十四日条
1488.9.6長享二年九月六日浄華院の松林院、玄周の和尚號について御礼に参内する。『実隆公記』『大日本史料』 長享二年七月十四日条
1489.04.07長享三年四月七日(蔭涼軒に)浄華院より使僧来たりて云う、明日、北等持において結縁諷経を勤むべしと。(軒主)他に在り返答あたわず。『蔭涼軒日録』p.1468
1489.04.21長享三年四月二十一日汲古北堂逝去。浄華院引導。『蔭涼軒日録』p.1482
1489.04.22長享三年四月二十二日文殊院来りて云う。浄華院経贈る事(について?)。『蔭涼軒日録』p.1482
1492.05.13延徳四年五月十三日今日伊勢備中守殿北堂第三忌、浄華院において仏事あり。『蔭涼軒日録』p.2281
1493.07.16明応二年七月十六日沙門宗盛、兄掃部助頼憲の菩提のため養徳院(現大徳寺塔頭)へ東洞院敷地を寄進する。一時この北隣に浄華院の敷地があった。大徳寺文書之ニ(一〇四一―一〇四〇)(『大日本史料』)
1493.1.30明応二年正月三十日北野天満宮社家松梅院、入江殿へ茎立(カブ、アブラナなどの野菜)を御寮より御進上云々、昨日浄花院長老が参られ、褐色に名づけらる云々。『北野社家日記』(四 史料纂集 p.27)
1493.4.29明応二年四月二十九日夜来浄華院之松房、三合二荷持ち来る。御所間において宴あり。深更に及ぶ、帰る。『蔭涼軒日録』p.2496
1495.2.13明応四年二月十三日後土御門天皇、浄華院の阿弥陀像・勢至像を礼拝。「しやうけゐんのかいさんさくのあみた、地れんけ、ほうねんのさくのせいし、めしよされておおかミあり、ちやうらうまいらるゝ、御たいめんあり、」『御湯殿上日記』(『大日本史料』「史料稿本」)『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004
1495.2.29明応四年二月廿九日また浄華院の霊宝(尺尊水瓶)を召す。「又浄花院霊宝尺尊水瓶、今日彼住持ニ参之可拝見哉云々。依故障不参無念々々」『実隆公記』(『大日本史料』「史料稿本」)
1499.6.15~18明応八年六月十五~十八日後柏原天皇、清浄華院某を召して法談を聴し召され、十八日に及ぶ。『実隆公記』『日本仏教史』第五巻中世篇之四 辻善之助 s46 P.281
1500.5.24明応九年五月二十四日興憲法印百箇日、浄花院において講問あり。しかし雨祈祷が重なったため聴衆なし。尋尊無念。「於浄(花脱カ)院講問在之、講師行学五師、門者実禅、客東北院大僧正、題遣相證性、院家・平坊講問被出事初云々。今日依雨祈祷老若指合故、丁(聴)聞衆一切無之、無念事云々。経供養在之、講(導)師東北院鈍色甲。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」百八十三p.420
1511.10.23永正八年十月二十三日室町幕府奉行人より浄華院塔頭無量寿院へ「千本御所中屋地并九段田」について奉書が発行される。「土御門文書」(『室町幕府文書集成』奉行人奉書篇下p.148)
1515.10.04永正十二年十月四日足利義稙、山城浄華院に祈祷を行わせ、同寺を修造せしむ。「祈祷事、任例可被致精誠候、次当寺再興、相談諸閑(末カ)寺、遂造営者可然候状如件 永正十二十月四日 貞陸御調進 浄華院長老」「足利家御内書案」『大日本史料』
1515.12.02永正十二年十二月二日十二月二日、足利義稙、三条御所へ移転。八日に浄華院「以下」長老・律家らと御対面。三条御所御移徒次第「益田家文書之一(二六四)」(『大日本史料』)
1516.10.04永正十三年十月四日将軍義稙が浄華院長老に堂塔再興を許す。上杉本洛中洛外図に描かれる浄華院はこのとき造営の物と考えられる。「祈祷の事、例に任せ精誠を致さるべく候。次で当寺再興、諸末寺と相談し造営を遂ぐるれば然るべく候状、件の如し。永正十三十月四日 貞陸(伊勢)御調進 浄華院長老 」『室町家御内書案』"『大日本史料』『京都・一五四七年―描かれた中世都市』 今谷明 平凡社 1988 p.143"
1521.08.29大永元年八月二十九日浄華院に夜盗が入る。『実隆公記』
1524.06.06大永四年六月六日晩、三条西実隆邸に華開院来臨。法然上人金色名号・同熊谷名号・一枚起請・被遣熊谷書状・浄花院開山手跡などを見せられ、法然上人御袈裟・御数珠などを同じく頂戴する。『実隆公記』(六 史料纂集 p.185)
1533.04.19天文二年四月十九日知恩院の門徒、宮中へ越中西願寺(魚津市)香衣の御礼に来る。(西願寺へは文禄四年には浄華院が関わり勅額が送られており、本寺が換わっていることがわかる。)『御湯殿の上の日記』天文2.4.19(『富山県史』通史編Ⅱp.254)
1534.6.8天文三天六月八日秀馨が真名本「浄花院霊寳縁起」を写す。(雑四『浄華院由緒記』収録)「浄華院由緒記」雑四
1535.01.26天文四年正月廿六日浄華院長老、弘法大師六字名号引合十帖遣之、万里小路中納言傳之、去十一日豊楽門院御臨終ニ参、其布施也。『後奈良院宸記』(『宸記集』上p.515)
1535.05.13天文四年五月十三日後奈良天皇に浄花院当住が礼参する、。浄花院当住御礼参、名忘却(善妙院云々)、小檀紙十帖、香箱進上。同花開院長老〓候也、対面。『後奈良院宸記』(『宸記集』上p.547)『後奈良院宸記』(後奈良天皇日記) (『和漢紙文献類聚』古代中世編 p.178)
1535.06.13天文四年六月十三日山城浄華院某、同華開院某と共に参内して物を献ず。『御湯殿上日記』
1535.06.26天文四年六月廿六日大セン院セん米一折進上、浄花院長老参、青蓮院、曼殊院参。『後奈良院宸記』(『宸記集』上p.549)
1535.08.07天文四年八月七日帥大納言、盧山寺の霊宝を後奈良天皇に見せる。法然の念珠や法然自記佛等が見える。『後奈良院宸記』(『宸記集』上p.557)
1537.11.19天文六年十一月十九日清浄華院某、後奈良天皇に毘沙門天像をご覧にいれ、数珠を献ずる。『御湯殿上日記』『戦国時代の宮廷生活』 奥野高廣 続群書類従完成会 2004 P.826
1538.■.17天文七年■月十七日新黒谷にて浄華院の談義がある。『親俊日記』p.58
1541.04.05天文十年四月五日鹿苑院主、入江殿に召され松尾明神祭酒に出席。帰りに清春庵にて吸物、酒あり、招りん玉庵相伴、酒二三返。「珠慶・宗祐・浄花院之衆有一員」。『鹿苑日録』十九 p.112
1546.08.09天文十五年八月九日此十日許浄花院ニ唐(明)人三十人許居住也、種々物商売云々、群衆無是非云々。『後奈良院宸記』(『宸記集』上p.643)(『大日本史料』史料綜覧)
1548.04.12天文十七年四月十二日山科言継、亡父忌日の間、浄華院之僧松林院乗清を斎に呼び、相伴する。『言継卿記』「室町貴族の念仏信仰と念仏芸能」西田円我『浄土教の思想と文化』恵谷先生古稀記念編 仏教大学 s47 P.828
1548.04.30天文十七年四月晦日浄華院に於いて説教(秉拂)習あり。当軒(鹿苑院)より幼童三人これに赴く。まず、角粽、沙嬉(酒)。習一返、禅客(禅寺で住持が法語などを説いて指導する際、質問を行う役の僧。)は貞首座がこれを勤む。習以後餝飯。飯後帰来。『鹿苑日録』二十六 p.304
1548.05.12天文十七年五月十二日山科言継、亡父忌日の間、浄華院内松林院紹清を斎に呼び、相伴する。『言継卿記』「室町貴族の念仏信仰と念仏芸能」西田円我『浄土教の思想と文化』恵谷先生古稀記念編 仏教大学 s47 P.828
1548.10.15年不詳(天文十七年頃カ)・十月十六日浄華院長老出家の身ながら魚鳥を食べ遊女を呼ばせるなど行跡宜しからざる故、訴えられる。「蜷川家文書之三(六一六)」『大日本史料』
1548.12.15天文十七年十二月十五日新黒谷住持職について、室町幕府奉行人より奉書が発行される。(前住持が定めた法度を守らないため新黒谷を義絶していたが、妙心院の懇望があったので赦免したところ、本寺浄華院に断りなく他門の長老を住持としたのでこれを追出した。本末の関係を追認する。)"「蜷川家古文書二四」(『室町幕府文書集成』奉行人奉書篇下p.445)「蜷川家文書之三(六一一)」(『大日本史料』)"
1548.12.15天文十七年十二月二十五日伊勢貞孝、浄華院の金戒光明寺管掌を追認する。「新黒谷之儀、任今度御下知并寺家法度之旨、諸事堅可被申付事肝用候、尚□・・・□可令申候恐々謹言 十二月廿五日 貞孝 浄花院 持者中」「蜷川家文書之三(六一六)」『大日本史料』
1550.5.20天文十九年閏五月廿日言継、御所より「鳴不動絵借用、老母以下見之、則立帰返遣之」『言継卿記』十五p.54
1561.7.29永禄四年七月二十九日京都兵乱。御所東南で紛争が有る。灰方郷より番衆がすぐ駆けつける。北側の守りとして浄華院(ちやうけ院)、報恩寺に竹棹五十本づつ仰せらるる。「御湯殿上日記」(『大日本史料』「史料稿本」)
1571.07.24元亀二年七月廿四日浄華院良休、紫衣を着用して参内するべしとの綸旨を聴さる。「晴豊公記」(『大日本史料』)
1571.10.10元亀二年十月十日(正親町天皇)御生母贈皇太后栄子、五十回忌に付き法要有り。般舟三昧院にて曼荼羅供、小御所にて懺法、浄華院(しやうけゐん)にて施餓鬼が行われる。「御湯殿上日記」(『大日本史料』)
1571.10.6元亀二年十月六日十日、(正親町天皇)御生母贈皇太后栄子、五十回忌に付き法事が行われるため白銀(しろかね)が般舟三昧院、浄華院に下さる。「御湯殿上日記」(『大日本史料』)
1579.3.2天正七年三月二日前浄華院住持源蓮を召して、阿弥陀経を聴聞、之に上人号を賜う。『言経卿記』(『大日本史料』史料綜覧)
1583.08.18天正十一年八月十八日山科言経、亡母忌日のため、浄華院栄玉を呼び、相伴する。『言経卿記』「室町貴族の念仏信仰と念仏芸能」西田円我『浄土教の思想と文化』恵谷先生古稀記念編 仏教大学 s47 P.828
1583.09.02天正十一年九月二日山科言経、亡父言継忌日の間、松林院性心を斎に呼び、相伴する。『言経卿記』「室町貴族の念仏信仰と念仏芸能」西田円我『浄土教の思想と文化』恵谷先生古稀記念編 仏教大学 s47 P.828
1583.09.18天正十一年九月十八日山科言経、亡母陽春院御忌日のため、浄華院栄玉を斎に呼び、相伴する。『言経卿記』「室町貴族の念仏信仰と念仏芸能」西田円我『浄土教の思想と文化』恵谷先生古稀記念編 仏教大学 s47 P.829
1583.10.18天正十一年十月十八日山科言経、亡母陽春院、唯心院(言綱室、言継養母)御忌日のため、(浄華院?)宗裕を斎に呼び、相伴する。『言経卿記』「室町貴族の念仏信仰と念仏芸能」西田円我『浄土教の思想と文化』恵谷先生古稀記念編 仏教大学 s47 P.829
1586.6.2天正十四年六月二日道残上人、正親町天皇綸旨をうける。(末寺西福寺道残長老、在京して浄華院にて若き輩に学問指南すべき旨)西福寺文書「(正親町天皇綸旨)」(福井県文書館)
1589.06.25天正十七年六月二十五日道残上人によって金戒光明寺法度が出される。(福井西福寺文書に収容)西福寺文書「金戒光明寺之法度」(福井県文書館)
1595.6.28文禄四年六月二十八日越中西願寺(魚津市)に松林院や浄華院が仲介し、万里小路賢房が執奏して後柏原院(或後陽成)宸筆の勅額が送られる。西願寺蔵文書(『富山県史』通史編Ⅱp.254)
1599.03.06慶長四年三月六日勅願所となる浄華院末寺山形市常念寺に参台式目が出される。「常念寺文書」『山形県史』資料編十五上 古代中世史料Ⅰp.216
1599.03.25慶長四年三月二十五日浄華院末寺山形市常念寺の住持(法蓮社一聲上人)に後陽成天皇綸旨が発行される。「常念寺文書」『山形県史』資料編十五上 古代中世史料Ⅰp.216
1599.03.27慶長四年八月二十七日某が末寺山形市常念寺の勅額を整える事に関して書状を発行。(本寺浄華院が「殿様」に御見舞へいったことなども記される)「常念寺文書」(「某書状」)『山形県史』資料編十五上 古代中世史料Ⅰp.217 p.218
1599.08.00慶長四年八月吉日浄華院心蓮社(三十五世良久上人か?)より末寺山形市常念寺へ禁制(勅額前での下馬、勤行・祈祷、殺生禁断等の定)、朱印状が出される。「常念寺文書」『山形県史』資料編十五上 古代中世史料Ⅰp.216
1599.08.27慶長四年八月二十七日出羽の最上義光が末寺山形市常念寺の勅額に関して書状を発行。(新地来迎寺との旦那の事など)「常念寺文書」(「最上義光書状」)『山形県史』資料編十五上 古代中世史料Ⅰp.217 p.218
1605.06.05慶長十年六月五日鹿苑院主、瑞華院殿葬礼のため出洛する。ケイカイ院(華開院か?)にて葬礼と逢い、日(日野)亞相、広(広橋)亞相科(裏)頭にて見物。点茶の仏事、浄花院西堂なり。下火(アコ)は浄華院住持長老が行い、鋤持ち法語をとなう。「不落耳痕」。経文下火古今少なし。葬礼後、鹿苑院主は相国寺へ帰り、行水。『鹿苑日録』四十四 p.250
1605.11.03慶長十年十一月三日鹿苑院主、浄華院に赴き「習」。問禅(住持の説法に際し、聴衆の中から質問する僧が出て住持と問答をすること)鋭蔵主、八問に及ぶ。「習」が終わって、酒や菓子が出、喫茶。申刻より相斎作法。『鹿苑日録』四十四 p.274
1611.05.22慶長十六年五月二十二日出羽の最上義光が末寺山形市常念寺へ知行百石を進上、寄進状を出す。「常念寺文書」『山形県史』資料編十五上 古代中世史料Ⅰp.217
1613.06.16慶長十八年六月十六日幕府より諸寺紫衣の制が仰せ下される。大徳寺・妙心寺・知恩院・知恩寺・浄花院・泉涌寺・粟生光明寺・黒谷金戒寺など住持職は勅許あらざる前に聞え上べし。其の器量を撰で計らうべし。其の上入院の事申し沙汰すべし。「台徳院殿御實紀」巻廿二『徳川実紀』p.625
1614.11.02慶長十九年十一月二日知恩院大僧正、大御所(家康)に拝謁、賜り物がある。他に知恩寺、清浄華院などの住僧が拝謁し、銀五枚、時服五づつ賜る。「台徳院殿御實紀」巻三十『徳川実紀』p.713
1614.11.04慶長十九年十一月四日二条城にて家康(大御所)に殿上人、諸門跡の使僧が拝謁、賜り物がある。清浄華院も杉原、扇子、茶菓など賜る。「台徳院殿御實紀」巻三十『徳川実紀』p.715
1617.11.5元和三年十一月五日浄華院の僧、粟田口にて成敗。『土御門泰重卿記』(『大日本史料』)
1621.01.10元和七年正月十日年頭の禁中諸礼、浄華院長老も参内御礼する。『泰重卿記』(二 史料纂集 p.72)
1623.01.24元和九年正月二十四日晩浄華院で法事がある。泰重、談義聴聞する。『泰重卿記』(二 史料纂集 p.135)
1624.01.09元和十年正月九日年頭の禁中諸礼、浄華院長老も参内御礼する。『泰重卿記』(二 史料纂集 p.194)
1624~1643寛永頃 五月二十八日融通寺(福島県若松大町か)が勅願所となり、浄華院良久による書状が書かれる。浄花院良久書状案(新編会津風土記巻之十五 会津大町融通寺文書『福島県史』7 p.818)
1624~1643寛永頃 四月二十九日融通寺(福島県若松大町か)が勅額を所望し上洛浄華院へ折り紙を出した事に関して、蒲生氏奉行が連署して労をねぎらう。蒲生氏仕置奉行連署状(会津若松市 興徳寺文書『福島県史』7 p.795)
1625.6.18寛永二年六月十八日朝、先日より危篤状態であった土御門久脩(泰重父)が逝去、方々から弔問の使いを給う。町人を詰めさせ、浄華院の僧林太を呼び<沐浴の作法を行わせ、晩に入棺する『泰重卿記』(三 史料纂集 p.28)
1625.6.19寛永二年六月十九日中山にて土御門久脩の火葬)が行われ、葬礼の日どり(二十五日真如堂にて葬儀)が決められる。泰重邸(予所)にて林太(浄華院僧)が七日の五時つとめを修す。公家や所領百姓などが弔問に訪れる。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.28)
1625.6.20寛永二年六月二十日浄華院僧林太が土御門久脩の五時のつとめを修す。公家や所領百姓などが弔問に訪れる。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.28)
1625.6.21寛永二年六月二十一日浄華院僧林太、今日も久脩葬儀の五時のつとめを修す。泰重、久脩追善のために法華経書写を始め弔人とは会わず。浄華院きうかん・そいん両人を「とき」に呼ぶ。宗円が来たので布施を渡す。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.28)
1625.6.22寛永二年六月二十二日今日も久脩葬儀の五時のつとめを修す。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.29)
1625.6.23寛永二年六月二十三日この日も久脩葬儀の五時のつとめを修す。泰重邸に真如堂衆訪れ、葬礼の始末を相談する。道具、人員の配置、服装などの用意も整う。鹿苑寺より諷経の申し出があるが過分として断る。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.29)
1625.6.24寛永二年六月二十四日久脩葬儀の普請が整い、真如堂にては近年及ぶもののない壮麗な葬礼になると世人が口々に言う。葬儀手伝いの人員(百姓)の配置が整う。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.29)
1625.6.25寛永二年六月二十五日土御門久脩葬儀。浄華院長老も参列する。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.30)
1625.6.26寛永二年六月二十六日泰重、久脩葬儀がすみ真如堂関係者と対面、「昨日儀式御精入、綺麗相見過分之由」などと話をする。浄華院林太来訪、飛鳥井三部経を送ると過分であると恐縮される。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.31)
1625.6.27寛永二年六月二十七日泰重、二十五日久脩葬儀に参列した浄華院長老へ暑い時分にご苦労の由を伝え、諸白(酒)一荷、糗二十袋を送る。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.31)
1626.1.14寛永三年正月十四日年頭の禁中諸礼、浄華院長老も参内御礼する。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.78)
1626.6.17寛永三年六月十七日土御門久脩一周忌。土御門泰重邸、ひじ(法要の際に出す食事?非食=午後?)に浄華院の僧衆が来る。振舞二膳まで、法事聴聞の相伴なり。布施と菓子・茶・瓜などを貰って寺へ帰る。前日には兄弟の倉橋泰吉が作善のため斎の振る舞いをし、真如堂衆に法事ののち相伴している。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.107)
1627.06.17寛政四年六月十七日川越蓮馨寺某(知音忍譽)が京浄花院住職になる。(代って増上寺伴頭典海が蓮馨寺住職となる。)「常憲院御實紀」巻十二『徳川実紀』p.185
1627.07.19寛永四年七月十九日西城(江戸城西の丸)にて大御所(秀忠)による法問御聴聞があり、諸宗僧侶出世の事、紫衣黄衣、上人号の制法がくださる。清浄華院の上人号執奏も増上寺檀所の能化両判の添状を知恩院へもって行き、知恩院より達して出世させるべし云々。「大融院殿御實紀」巻十『徳川実紀』p.413
1630.1.10寛永七年正月十日年頭の禁中諸礼、浄華院長老も参内御礼する。諸門跡、院家に続いて諸寺長老の御礼、浄華院・松林院が初めに到着する。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.220)
1630.9.3寛永七年九月三日良聖を浄華院住持に勅請あらせられる。(『大日本史料』「史料綜覧」)
1639.5.4寛永十六年五月四日鹿苑院主、彦山座主旅宿へ赴く。寺町浄華院也。『鹿苑日録』七十四 p.220
1647.11.1正保四年十一月一日鳳林承章(金閣鹿苑寺住持)、応山(近衛信尋)との対面中に浄華院内全隆孫弟子善応とはじめて会う。『隔蓂記』二(p.252)
1648.1.5正保五年正月五日金閣鹿苑寺へ浄華院内全隆孫弟子善応(禅応)が訪ねる。住持の鳳林承章は出京のため会えず。納豆を送る。『隔蓂記』二(p.287)
1651.8.10慶安四年八月十日鳳林承章、今出川の藤谷中将(為条)の斎振舞に赴く。数名の相伴の中に「浄華院之正吟」がいたが、承章は初めて会った。終日打談し、囲碁があり、濃茶数種も喫し、夕食を食べて晩に帰山した。『隔蓂記』三(p.57.58)
1655.11.10明歴元年十一月十日鳳林承章(金閣鹿苑寺住持)、後西院天皇新造内裏に行幸、勧修寺経広宅にて見物、集まった人々の中に浄華院の僧が三人。『隔蓂記』三(p.716)
1657.11.19明歴三年十一月十九日鳳林承章の晴雲軒(相国寺内)に浄華院善翁らが訪れ、「浮盃也」。『隔蓂記』四(p.299)
1658.1.3明歴四年正月三日鳳林承章の晴雲軒(相国寺内)に浄華院善翁らが訪れ正禮、「年頭之禮」は当年が初。『隔蓂記』四(p.325)
1658.12.9万治元年閏十二月九日鳳林承章、坊城常空(俊完)家へ赴く。芝山内記(?)三七日の斎に百万遍の僧と浄華院善翁とその弟(弟子?)善慶、斎僧が来居中。承章も相伴、喫斎。『隔蓂記』四(p.451)
1658.4.23明歴四年四月二十三日鳳林承章、勧修寺経広息経尚の元服式に呼ばれる。知り合いの出席者のなかに浄華院善慶(善應?)がいた。『隔蓂記』四(p.368)
1660.1.29万治三年正月二十九日浄華院内善翁が鳳林承章を訪ねる。他出のため会えず。茶巾箱入並びに火箸一双を送る。『隔蓂記』四(p.623)
1660.2.23万治三年二月二十三日浄華院内善翁が24日の茶の湯振舞に招くため鳳林承章を訪れる。承章、対面し「浮盃」。『隔蓂記』四(p.630)
1660.2.24万治三年二月二十四日鳳林承章、浄華院内善翁に茶の湯振舞に招かれる。三人相客。承章は小杉紙や末廣扇などを送るが、「音信(音信物=贈物)之禮」を終わって帰るまで善翁が言わず「如何々々」。この茶会の掛物は頼政筆の経の書切であった。茶のあと書院を出て薄茶を飲み、帰山した。会席は「殊外慇懃之様子」、承章初めての茶の湯であった。『隔蓂記』四(p.630)
1661.12.5寛文元年十二月五日蓮台寺で山科言總の葬礼があり、鳳林承章も野諷経に出席する。葬儀の引導者は「浄華院末寺之長老」であった。『隔蓂記』五(p.168)
1662.1.09寛文二年正月九日常空(坊城俊完)の葬送が浄華院に於いて行われると内々に伝わり、鳳林承章の晴雲軒にも葬送へ参加する西壽が来ていたが、が、13日に延引。『隔蓂記』五(p194)
1662.1.13寛文二年正月十三日晩、浄華院において常空(坊城俊完)の葬送が行われる。時分柄隠密ゆえ、鳳林承章は諷経に出席せず。吉権、西寿らは浄華院へ赴く。『隔蓂記』五(p.198)
1662.1.14寛文二年正月十四日作晩、浄華院において常空(坊城俊完)の葬送が行われ、坊城亞相(俊広)宅で「中陰」があり、鳳林承章、今日「贈経、法華八軸」を遣わしむ。『隔蓂記』五(p.200)
1664.1.12寛文四年正月十二日鳳林承章の所へ浄華院善翁が(年頭)禮のため浜名納豆・香煎を持参し来訪するが、承章他出のため対面せず。『隔蓂記』五(p.522)
1664.00.00寛文四年江戸に開帳。日鑑宝永5年11月4日条「先年も類焼仕候時分、四十五年以前寛文四辰年於江戸ニ開帳仕候儀御座候」『日鑑』宝永5年11月4日条林久美子先生よりご指摘
1670.02.00寛文十年二月日一昨年に幕府より中井水主へ申し渡された寺院建築に関する禁制にかんして、違背が多いしとて京都町奉行所(雨宮対馬守)より改めて触れられる。書面の配り先に「浄華院」が含まれる。「四九四 覚(中井家文書)」『京都町触集成』別巻2 p.248寛文10 四九四
1680.08.15延宝八年八月十五日幕府月次拝賀に「京浄花院」参列。纉緒(将軍交代)を賀す。「常憲院御實紀」巻一『徳川実紀』p.369
1681.00.00元和元年(延宝九年)疫病流行るに付き居開帳。宝永5年8月4日条「開帳之儀此以前廿七年先ニ世間疫病はやり申ニ付、七日開帳仕候」『日鑑』宝永5年8月4日条林久美子先生よりご指摘
1694.05.05元禄七年閏五月五日将軍、増上寺了也を始め京浄花院、伝通院などの緇徒(僧侶)を饗せら猿学などがある。このとき了也に方丈になるべく面命がある。「常憲院御實紀」巻廿九『徳川実紀』p.199
1694.05.12元禄七年閏五月十二日将軍、増上寺了也の坊へ臨駕。寄進があってのち了也は大僧正に任ぜられ、将軍と面会。法問があり、参加した京浄花院には時服(将軍から下される衣服)五が下される。「常憲院御實紀」巻廿九『徳川実紀』p.200
1708.08.07宝永五年八月七日泣不動尊開帳(20日まで)『日鑑』享保17年3月16日条
1708.08.20宝永五年八月二十日泣不動尊開帳開始(7日から)『日鑑』享保17年3月16日条
1710.11.26宝永七年十一月二十六日清浄華院阿弥陀堂、造畢。上棟云。『基長卿記』(『続史愚抄』)(『古事類苑』宗教部四十二 吉川弘文館 p.383)
1715.03.08正徳五年三月八日三万日回向開闢『日鑑』享保17年3月16日条
1715.03.15正徳五年三月十五日三万日回向成満『日鑑』享保17年3月16日条
1722.10.00享保七年十月「諸宗僧侶法度」に前後して諸本山の法度が定められ、十月「浄華院法度」が出される。『日本人の行動と思想』45「近世念仏者集団の行動と思想」長谷川匡俊 評論社 1880 p.30 p.54
1729.04.24享保十四年四月二十四日以前京都へ象が来る。そのための注意などの町触が出される。『京都町触集成』享保14年二三五・二三六
1729.04.26享保十四年四月二十六日将軍吉宗へ貢される広南国からの象が天皇御覧のため入京し、清浄花院に寄寓、午刻に到着。通兄、見物し「誠奇怪物也」云々。『通兄公記』(第二 p.39 史料纂集)
1729.04.27享保十四年四月二十七日明後二十九日、象が浄華院を出立するため、注意などの町触が出される。『京都町触集成』享保14年二二八・二四〇~二四三・二四九
1729.04.28享保十四年四月二十八日天皇が象を御覧のため近習輩を召す。通兄も見物し、象が饅頭や竹の葉などを食べ、鼻で水を吸い口に移して飲むなどと記す。『通兄公記』(第二 p.40 史料纂集)
1729.05.00享保十四年五月象往来に関する入用のあった社寺や町中に軒役などの免除がある。『京都町触集成』享保14年二四九
1732.09.00享保十七年九月敬法門院御送葬につき、火元などに気をつけるよう町触(口触)が出る。『京都町触集成』享保17年 五三九
1732.09.11享保十七年九月十一日浄華院にて御法事(敬法門院送葬カ)御普請御入用の諸品、入札が行われる旨の町触がある。『京都町触集成』享保17年五三四・五三五
1732.09.20享保十七年九月二十日敬法門院、浄華院に葬らる。『続史愚抄』『月堂見聞集』(『大日本史料』「史料綱文」)
1732.09.20享保十七年九月二十日夜、敬法門院が清浄華院に奉葬される。『通兄公記』(第三 p.30 史料纂集)
1732.04.08享保十七年四月八日万日回向開闢(15日まで)享保17年4月8日条
1732.12.10享保十七年十二月十日敬法門院百ヶ日の法会が清浄華院にて行なわれ、公卿列席。『通兄公記』(第三 p.50 史料纂集)
1732.12.9享保十七年十二月九日敬法門院百ヶ日逮夜法会が清浄華院にて行なわれる。『通兄公記』(第三 p.50 史料纂集)
1732.05.20享保十七年五月二十日物集女村聖聚院登山。貧寺にて「梅津村松寿庵」へ「相勤仕」、聖聚院には留守居を置きたいとの申し出あり。『日鑑』享保十七年五月二十日条
1732.07.24享保十七年七月二十四日万里小路家宝蔵にて虫払い。『日鑑』同日条
1733.01.28享保十八年正月二十八日奉行所へ河原町通(裏門筋、御車道)の本禅寺図子から廬山寺図子までの東西南北九十九間、東西五間ほど、廬山寺図子から清和院口南北八十二間、東西七間程に建家御免の礼状を出す。『日鑑』同日条
1733.04.27享保十八年四月二十七日「元祖大師御廟、敬法門院御廟殿殊外参詣之勝手悪敷ゆへ」移転、南の方へ移転。『日鑑』同日条
1733.05.14享保十八年五月十四日「元祖大師之御廟」を移転、西向きにしたい云々。『日鑑』同日条
1733.05.25享保十八年五月二十五日元祖御廟への月並み参詣の日であるが、移転中であるので供物等を供え丁寧にし、施主である麩屋太郎兵衛を呼び勤行。『日鑑』同日条
1733享保十八年下旬不動堂狐格子懸魚等の荘厳で許可無しとして揉める。大工が手鎖に。『日鑑』同年下旬日条
1734.2.3享保十九年二月三日無量寿院吟長、不行跡(金子使い込み)により退院隠居。『日鑑』同日条
1734.2.13享保十九年二月十三日御土居薮について問い合わせ「一、同日町代中村小兵衛被参候趣者當山裏通土居薮拝領以後右土居跡ニ万日堂裏門其外建物之義土居跡ニ建申度旨其節御願申され候事・・・『日鑑』同日条
1734.3.24享保十九年三月二十四日敦賀善妙寺旦方、納骨に来山。『日鑑』同日条
1734.6.23享保十九年六月二十三日浄花院念仏堂常行院、四万日回向の執行の届けを奉行所へ提出。今までの回向日も記載。『日鑑』同日条
1734.7.3享保十九年七月三日土居跡について再度問い合わせ。『日鑑』同日条
1734.8.19享保十九年八月十九日西岡物集女村聖衆院縁意隠居願。『日鑑』同日条
1734.9.21享保十九年九月二十一日京門中に「制條」を発布する。『日鑑』同日条
1734.11.12享保十九年十一月十二日不動堂屋根工事『日鑑』同日条
1734.11.23享保十九年十一月二十三日元祖講中、方丈と会合、四万日回向にあわせ、辰の年京江戸大坂にて泣不動尊の開帳をしようとの相談。翌日嵯峨清涼寺へ開帳間隔年数に付いて相談へ行く。『日鑑』同日条
1734.11.27享保十九年十一月二十七日不動堂屋根工事完成、鎮守社屋根修理も依頼する。『日鑑』同日条
1734.12.3享保十九年十二月三日不動堂屋根工事完成、遷座式。屋根葺き替え、「銅どい(樋カ)」、石檀(段カ)、畳の表換え、堂周り総洗いなど、講中で世話、丈室塔頭出勤にて心経10巻、百万遍などを執行。『日鑑』同日条
1734.12.21享保十九年十二月二十一日物集女村聖衆院旦那四郎衛門宿坊迠参候、堂舎修復の助成と住職入院を依頼に。『日鑑』同日条
1742.9.12寛保二年九月十二日清浄華院にて、泣不動尊画像ならびに万里小路家所在の什物が開帳され、この日万里小路家に返還される。「衆人之処、参詣成群」とあり開帳は盛況であった。通兄は晩になって「葉室前亞相(頼要?)」とともに返還後の万里小路家に出かけ、什物を見物、「各殊勝之霊物也」云々。『通兄公記』(第六 p.134 史料纂集)
1742.9.21寛保二年九月二十一日清浄華院宝物を禁中に召して之を見る。『続史愚抄』『[付録]続史愚抄』
1746.4.10延享三年四月十日浄華院住職門□和尚、大厳寺住職・大厳寺良義和尚とともに台命を蒙る。『増上寺日鑑』日鑑六(『岩槻市史』Ⅱ‐下 p.718)
1757.02.00宝暦七年二月(寺々本尊開帳の節、霊元院様以後御代々はもちろん女院御所、女御御方よりの寄附物を拝観させる事を差し止める旨の触れが出る。ただし、日常希望者への拝観は苦しからず、他国より来る開帳に関しても同じ。)『京都町触集成』宝暦7年 一八六二
1763.01.24宝暦十三年正月二十四日京都所司代阿部伊予守、京都御巡見(案内小林阿波守)、寄る社寺へ諸事入念に心得違いなきように触れがある。宝物なども「先格」(去丑年)のように手間取らないように書付を先々に附き添いの「御奉行」にご覧にいれる事なども触れらる。『京都町触集成』宝暦13年 一八四
1789.10.05寛政元年十月五日開明門院御送葬と中陰の法要のため浄華院仏具・荘厳具類新調、望む者は入札するように触れが出る。『京都町触集成』寛政元年 一五三
1828.06.00文政十一年六月徳島藩が扶持米を出していた人々の台帳「須本京大坂無足以下并御合力共分限帳」が記される。清浄華院へ京升にて米弐十石、塔頭の常行院へ十石が与えられている。「須本京大坂無足以下并御合力共分限帳」『徳島藩職制取調書抜』下  国立史料館 東京大学出版会 1984
1846.02.25弘化三年二月二十五日万里小路正房、唯心院十三回忌法要のため清浄華院松林院霊前にて灯香をささげ、墓所へ参る。法要は巳の刻より僧侶は五口。『萬里小路日記』二p.34
1846.03.19弘化三年三月十九日万里小路正房参内。「新大納言」より東京極院の年回忌について、他の中陰・触穢中に年回忌法要をした例があるのかを問われ、退出して開明門院の法要をした事がある浄華院を召し寄せて吟味する。いろいろ調べたところ東京極院(勧修寺婧子)三回忌は昨年済んでおり、浄華院の返答の次第などを再び参内して「当番新宰相」に返答。『萬里小路日記』二p.47
1846.07.03弘化三年七月三日万里小路正房、盆供養に清浄華院の廟に参る。博房・留姫・元姫なども参詣。盆供如例。『萬里小路日記』三p.70
1847.09.06弘化四年九月六日万里小路博房、松林院にて亡父正房一周忌を繰上げで行う。「御神事中」のため自身は参らず。『萬里小路日記』p.123
1848.09.14弘化五年九月十四日万里小路博房、松林院にて亡父正房三周忌を行う。「御法会如例」。来る十八日は芳顔院(聴丸?)の百箇日であるため、同時に供養する。『萬里小路日記』p.194
1848.6.10弘化五年六月十日万里小路博房息聴丸、浄華院に葬送される。戌の刻には無事改めが済む。『萬里小路日記』p.182
1848.6.7弘化五年六月七日万里小路博房息、聴丸卒。『萬里小路日記』p.180
1848.7.4弘化五年七月四日万里小路博房、例年の如く先祖代々の御廟へ詣でる。『萬里小路日記』p.184
1852.1.10嘉永五年正月十日禁中諸礼。万里小路博房も参加。松林院が参台するので、「非蔵人隠岐」に世話を頼む。(この日松林院は足袋を忘れ、博房は「聊不都合、自后可心付事也」としており、相当高齢であったか。)『萬里小路日記』p.280
1852.9.14嘉永五年九月十四日得解脱院殿七回忌の法会が松林院にて行われ、万里小路博房は三回忌と同様に御詣。また、「御墓今日御徳日也」とある。『萬里小路日記』p.316
1853.05.23嘉永六年五月二十三日万里小路博房息季丸、所労の所、養生の甲斐なく死去。『萬里小路日記』p.357
1853.5.24嘉永六年五月二十四日万里小路博房息季丸、今暁松林院へ養生退出(?)翌二十五日に「凉光院(季丸カ)今夜葬送畢」とある。『萬里小路日記』p.358
1863.02.16文久三年十二月十六日会津藩松平肥後守容保が、将軍上洛のため施薬院を出る。時事穏やかならざるため御所より離れず浄華院へ移る。守護の兵を近隣の寺院や商家へ置く。"『徳川諸家系譜』3 p.260『七年史』癸亥記四 p.88"
1863.08.01文久三年八月一日熊本藩士旅寓中。『鞅掌録』二(広沢安任著『会津藩庁記録』三 日本史籍協会編 p.500)
1863.08.18文久三年八月十八日八月十八日の政変。肥後藩士、親兵として諸藩兵士とともに三条殿に従い大仏へ向かう。夜になって三条殿が参内を停止をうけ親兵の指揮権がなくなったとして、小坂・轟・河上・山田ら肥後藩士は浄華院に戻る。「官武通記」二『続日本史籍協会叢書』

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