物集女宗入公追善法要

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※この法要は終了しました。

  • 物集女宗入公440回忌追善法要のご案内

物集女宗入像

 山城国乙訓郡物集女村(現京都府向日市物集女地区)に残る物集女城最後の城主、物集女縫殿助忠重入道宗入公の440回忌を記念して追善法要を営みます。

 戦国時代末に生きた物集女宗入は 京都の西の要である西岡(京都市西京区・向日市・長岡京界隈)の村々を拠点とする西岡衆と呼ばれた国人領主の一人で、物集女界隈の地域を支配する物集女氏の当主でした。室町将軍家や三好家にも仕えましたが、その後やってきた新興勢力である織田信長には従わず、その配下の細川藤孝によって謀殺されてしまいました。在地領主としての誇りを貫いて抵抗し、信長にも手を焼かせた人物でした。

 本年当院所蔵の肖像彫刻が宗入の像である事が確認され、また440回忌に当たることから、追善の法要が営まれることになりました。
 

 
【物集女宗入公 四百四十回忌 追善法要】
 
平成26年11月1日 於・清浄華院 大殿
追善法要 13時~ 
 
法要後
・解 説「物集女宗入公像の発見―物集女宗入創建・聖聚院の歴史」
  清浄華院史料編纂室 松田道観
 
・奉納紙芝居「西岡衆の活躍」
  京都乙訓ふるさと歴史研究会 中西 昌史
 
・記念講演「戦国武士物集女宗入と物集女城」 
  大阪市立大学教授 仁木 宏
 
  参列自由

  • 物集女宗入と清浄華院
物集女宗入像

 物集女氏は国人領主として物集女地区を支配し、室町幕府や将軍家にも仕えた在地の豪族でした。物集女地区にはその拠点であった物集女城の堀跡が現在も残っています。

 戦国時代末の当主であった物集女宗入は新興勢力である織田信長に従わず、その配下の細川藤孝によって勝龍寺城(現長岡京市)に呼び出され、殺されてしまいました。その後物集女城は破却され、一族も離散してしまったといいます。

 彼は「聖聚院」という寺院を建立したと伝えられ、其の寺は清浄華院の末寺として江戸時代の中頃まで物集女にありました。しかし、寛保年間清浄華院の隠居所として岡崎村(左京区)に移転し、明治時代になって廃寺になったようです。

 聖聚院の遺物は清浄華院へ移されたらしく、宗入の像もそうした縁で当院に伝わったと考えられますが、長いあいだその存在は忘れられ、像の主が誰なのかも分からなくなっていました。
 
 平成23年の法然上人800年大遠忌に伴う寺宝調査の際、台座裏の「聖聚院開基」の文字が見つかり、さらに調査をすすめた結果、聖聚院の過去帳と見られる史料の中から宗入の戒名が見つかりました。
 このことから彼の像であることが再確認され、さらに今年が彼の440回忌に当たることが判明し、この度法要を催すことになりました。

 この旨趣に賛同下さいました京都乙訓ふるさと歴史研究会・中西昌史氏より奉納紙芝居「西岡衆の活躍」上演の申し出があり、さらに大阪市立大学教授・仁木宏先生も応じて下さり、「戦国武士物集女宗入と物集女城」と題した記念講演を頂く事になりました。

 当法要の講演へは一般参列・聴講も歓迎しております。古文化保存協会協力の秋の非公開文化財特別拝観の期間中ですが、ご参列の方は大殿までは無料で御参拝頂けます。

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