fudou-kaichou

これらのキーワードがハイライトされています:oto

清浄華院の不動信仰?


江戸時代の不動信仰Ⅰ 江戸開帳と『泣不動縁起』絵巻

元浄花院町界隈

※このページは書きかけです!!

 室町時代の清浄華院は当時のメインストリートとも言える室町通りに面して伽藍を構えていました。ここは当時の御所や将軍の邸宅「室町第」にも近く、都の中心ともいえる場所でした。ここには現在も「元浄花院町」という町内が残っています。 
 等凞上人はこの地で清浄華院の栄華を築いたわけですが、その繁栄もそう長くは続きませんでした。

 応仁元年(1467)に起こった応仁・文明の乱に巻き込まれてしまうのです。 十年以上もの間、繰り広げられたいくさは、京の町を焦土にしてしまいました。清浄華院も勿論その難を逃れる事は出来ませんでした。

 御所や室町第に近い清浄華院は、何度も東西両軍のぶつかり合う戦場となってしまいました。堂塔伽藍は悉く戦火に焼かれ、巻き込まれ亡くなった僧侶・俗人は数百にも上ったと伝わっています。

 その後の復興には非常に苦労したようで、仏殿の再建には20年も掛かりました。 さらに、戦国時代になると、守護大名など地方勢力の台頭によって、支援者であった朝廷や幕府の権威が失墜し始め、清浄華院も斜陽の時代を迎えます。またこの頃ほかの本山も独自に力を付けるようになっていきました。
 とはいえ皇室や幕府の帰依は変わらなかったようで、当時の史料には宮廷周辺の寺院の一つとして活発に活動する清浄華院の様子が記されています。洛中洛外図屏風にも京都の有名寺院の一つとして伽藍の様子が描かれています。
 
 豊臣秀吉が天下を取ると京都の町の整備に着手し、それに伴い京中に散在する寺院を寺町通り沿いに移転するという事業も行われました。これにより、清浄華院は現在地である寺町広小路へ移転することになります。寺町通は南北に長く寺院ばかりが並ぶ通りですが、その中でも清浄華院はやはり御所に隣接する場所にあります。
 
 秀吉は清浄華院の領地所有や兵力の寄宿や所役の免除などの権利を保障してくれましたが、かつての栄華に及ぶべくもありませんでした。

#ref(): File not found: "./swfu/d/fudou-kaicho1.JPG"

 次へ→江戸時代の不動信仰Ⅱ―不動堂建立と波除不動尊


戻る 

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional