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  • 受難の人々を供養する 天明大火供養塔
天明大火供養塔

 天明8年(1788)正月30日、鴨川東岸の宮川町団栗辻子(現在の四条川端下ル付近)で発生した火事は、折からの強風に煽られて鴨川を渡り、京都市街の大半を焼き尽くす大火災となりました。市街を縦横に嘗め尽くした火災に、二条城や御所も類焼しました。後世これを「天明の大火」と呼びました。
   
 清浄華院もこの大火に類焼し、伽藍のほとんどは焼失してしまいました。しかし、清浄華院では早くも2ヵ月後の3月24日より、大火の犠牲者の供養のため、7日間にわたる別時念仏と施餓鬼会という大法要を執り行いました。 
 この五輪塔はその時に建立された供養塔です。傍らにはその旨を記した石碑も立っています。

 銘文には「焼亡横死百五十人之墓」とあります。死者150人は幕府の公式見解ですが、実際にはもっと多かったものと考えられており、清浄華院の記録『日鑑』にも死者2600人という風聞が記録されています。また「百五十人之墓」とあるものの『日鑑』によると実際に遺体が葬られたのは、大火後に日が経ってから井戸から引き上げられた犠牲者一名だけだったようです。

 幕末に起きた蛤御門の変に伴う元治の大火(1864)の際にもこの塔の前で天明大火77回忌をかねた犠牲者供養法要が執り行われており、受難の人々を供養する石塔とされていたようです。
 今回の東日本大震災に際しても、この石塔の前に殉難者回向のための塔婆が建てられています。

 昭和50年代頃まで墓地内にありました。周囲には六地蔵の石仏が安置されています。



  • 天璋院篤姫の曾祖母の供養塔 智満姫供養塔
智満姫供養塔

 智満姫(お千万の方・春光院)は公家の堤公長の娘で、薩摩藩8代藩主・島津重豪の側室となった人物です。
 智満姫は重豪との間に9代藩主となる島津斉宣をもうけます。そして斉宣七男の島津忠剛が今泉島津家へ養子入りし、幸と結婚して生まれたのが天璋院篤姫です。
 つまり、智満姫は天璋院篤姫の曾祖母に当たります。

 この宝篋印塔は、智満姫こと春光院の供養塔と伝えられているものです。残念ながら銘文は剥落して残っていませんが、本山の記録や堤家の伝承によると、智満姫の実家・堤家の菩提寺が清浄華院の塔頭・松林院であったことから、島津家より智満姫の供養塔として寄進されたものと伝えられています。
 
 智満姫が嫁いだ島津重豪のもとには、後室として甘露寺矩長の娘・綾姫も嫁いでいます。甘露寺家も松林院の檀家であり、松林院には綾姫(玉貌院)の位牌も大切に祀られています。

 当時の大名家は朝廷や皇室の権威にあやかるため、公家衆より競って妻を迎えました。公家衆の女性には実家の信仰を嫁ぎ先へ持ち込む習慣がありましたので、そうした関係で清浄華院も大名家と縁を結んでいます。薩摩島津家(薩摩藩)阿波蜂須賀家(徳島藩)秋月黒田家(秋月藩)などがその代表です。



  • 政商・立入宗継を顕彰する 立入宗継旌忠碑
旌忠碑

 立入宗継は戦国時代から安土桃山時代にかけての商人で、土倉として金融業を営みつつ、禁裏御所の財政を担う禁裏御蔵職を務め、戦国の混乱から朝廷の権威復興に尽力した人物として知られています。

 正親町天皇の使いとして織田信長の上洛を促した人物としても知られており、時代祭の『織田公上洛列』の先頭にもなっています。信長上洛後は朝廷と信長との間を仲介する役割を担い、当時の朝廷内では山科言継と共に信長の素性を知る数少ない人物であったようです。

 明治期になって、宗継は清浄華院ゆかりの尊王家の一人(他に山科言継・姉小路公知・玉松操などがいます)として、盛んに顕彰事業が行われるようになりました。
 明治31年(1898)明治政府は宗継の功績を讃えて従二位の位を贈ります。この碑はそれを記念して、宗継の墓のある清浄華院の境内に建立されたものです。



  • 阿波徳島藩・蜂須賀家ゆかりの桜 蜂須賀桜
蜂須賀桜

 蜂須賀桜は、阿波徳島藩蜂須賀家の居城、徳島城(徳島県徳島市)ゆかりの桜です。NPO法人「蜂須賀桜と武家屋敷の会」が徳島藩ゆかりの社寺に植樹をしており、平成23年に植樹されました。沖縄系の種の混じった比較的赤色が濃い、少し早咲きの桜です。
 清浄華院には徳島藩7代藩主・蜂須賀宗英の墓が営まれており、そのゆかりから植樹されました。

 蜂須賀宗英は分家の出身で、若くして隠居して京都で隠居生活を送っていましたが、6代藩主・宗員の死により徳島へ呼び戻されることになり、52歳という高齢で7代藩主となりました。
 
 清浄華院へは隠居時代から信仰を寄せていたようですが、娘の友姫(観心院)が檀家の東園基廉のもとへ嫁ぎ、早世した彼女が清浄華院に葬られたことでさらに関係が強まったようです。
 藩主就任中は財政が逼迫し執務は困難であったようで、早々に家督を譲り4年程で隠居しています。寛保3年(1743)江戸で没した宗英でしたが、遺体は徳島ではなく京都へ送られ、清浄華院へと葬られました。

 遺体が徳島に葬られなかった藩主は彼だけであり、それだけ清浄華院への信仰が厚かったことが伺われます。

 のち徳島藩は藍の専売などに成功し、西国の大藩としての地位を取り戻しました。宗英は娘の供養料として年貢を寄進しており、彼の死後も蜂須賀家より供養料が毎年送られることになりました。こうした蜂須賀家との縁は明治まで続きました。
 阿弥陀堂には宗英とその娘の立派な厨子入りの位牌が祀られています。

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