江戸時代の不動信仰Ⅰ

清浄華院の不動信仰

江戸時代の不動信仰Ⅰ 泣不動尊開帳と永納本『泣不動縁起』絵巻

晴明占いの場面
  • 出開帳へ出る泣不動尊

 江戸時代に入り平和な時代が訪れると、時代の主役は庶民に移っていきます。
 そんな中で人気を博したのが寺社への参詣でした。街道が整備され東西の交流が盛んになったものの、農業を基盤とした経済運営を基本方針とした幕府にとって人の移動は容認しがたく、自由な移動、旅行などは認められていませんでした。
 
 しかしそんな中で例外であったのが、社寺参詣でした。社寺参詣を

 

  • 後水尾天皇の叡覧
画像の説明

 はたして安倍晴明の泰山府君の法により、智興の死の病は証空に移り、証空はその病の苦しみに、日頃拝んでいた不動明王の絵像に助けを求める―。

 物語の主題はここから安倍晴明から離れ、不動明王のお話しになっていきます。晴明は死の運命ばかりは変えられず、身代わりを立てさせたわけですから、以後は舞台から降りてしまいます。

 一方、その後の病を移された証空は、死の定めは逃れられなくても病の苦しみだけは除いて欲しい、せめて臨終の念仏を心安らかに、と不動明王に祈ります。

 不動明王はこの時点で証空の助けに答えて初めて登場してくるのです。智興や証空、晴明の遣り取りの中には不動明王は一切出てこず、すこし唐突な登場である感は否めません。

 ところが、時代が下がるともっと早い時点で不動明王が登場してくる物語が登場します。
 室町・戦国時代に成立・流布した『曽我物語』に挿入された泣不動説話「三井寺大師の事」では、安倍晴明が不動尊像を本尊として智興と証空の命を取り替える修法を行っています。
 これ以前の縁起では命替えの本尊は泰山府君になっていますが、ここに来て、晴明が直接不動尊を拝み、命替えの修法を行うという構図になっているのです。

 泣不動の説話は江戸時代になると仮名草子などに引用されるようになりますが、晴明自身が不動尊像を拝むという形をとっています。これには『曽我物語』が大衆文芸の元ネタとして非常に親しまれたため、その影響の下で作られたためと考えられますが、近松門左衛門作の歌舞伎狂言『京わらんべ』や、浅井了意『三井寺物語』、『安倍晴明物語』など、中世説話を直接引用しない江戸時代の泣不動説話では、ほとんどが「晴明が不動尊像を拝む」という形を取っています。
 
 泰山府君という特殊な尊格や、証空が病気になってから不動尊が突然登場するという分かり難さを避けるため、こうした物語上の改編が行われたものと考えられます。江戸時代になると文学も大衆化していきますので、わかりやすさが求められた結果なのでしょう。

 もともとの形から変わってしまってはいますが…江戸時代の縁起に注目するならば、泣不動尊は安倍晴明が拝んだ仏画である、と言うことが出来そうです。『京わらんべ』や『三井寺物語』の版本の挿絵では、まさに晴明が不動明王の軸を壇に掛けて祈祷をする様子が描かれています。

 ちなみに、室町中期成立の能曲『泣不動』では、晴明が全く出てこず、証空が自ら不動明王に誓いを立てて、命を取り替えて貰っています。これは、おそらく舞台芸能である能において、登場人物を増やさないための処置であったのでしょう。
 

  • 安倍晴明と不動明王―中世の陰陽師

 さて、陰陽師・安倍晴明と不動明王――両者はたまたま「泣不動縁起」において出会ったのではありません。
 実は安倍晴明は不動明王を念持仏としていたという伝承があります。

 洛東・神楽岡にある真如堂こと真正極楽寺の御本尊・阿弥陀如来像の右脇に、晴明の念持仏と伝える不動明王が祀られています。
 大永四年(1524)作の『真如堂縁起』によれば、文安年間(1444-1449)に晴明の子孫・安倍有清なる人物が、この不動明王像は晴明の念持仏であるから返して欲しいと訴え出、天皇の勅命で子孫に返されることになりました。封印をして運び出したものの、いつの間にか寺に戻っており、それを知った天皇は今後も寺で祀るように命じたとあります。
 




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