清浄華院年表

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清浄華院年表 ※主に地誌類より。

西暦和暦出来事出典
859~877貞観年中清和天皇の勅願により禁裏道場として創建、清浄華台にちなんで清浄華院と名付けられ、慈覚大師円仁が初代住持となる。(※名の由来はおそらく『浄土論』の「無量大宝王 微妙浄華台」、或いは向阿の坊号によるものと思われる。)『京都市の地名』
859~877貞観年中清和天皇の勅願により禁裏道場として創建、慈覚大師円仁が初代住持となる。葬儀吊祭などを行わず、宝祚長久・天下泰平などを祈る浄業のみを勤めたので清浄殿と名付ける。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
860貞観二年清和天皇勅願により円仁が創建。「清浄華院由緒書」(『京都浄土宗寺院文書』)
860貞観二年清和天皇勅願により円仁が創建し天台を唱える。但し、寺伝に清和門内創建とあるが、当時内裏に清和門はない。『京都坊目誌』
862貞観四年慈覚大師の開基。『雍州府志』鎮流祖傳巻第八『浄全』
863貞観四年広大な寺域をもって普請が成就する。「清浄華院由緒書」(『京都浄土宗寺院文書』)
864貞観四年慈覚大師圓仁寂。「清浄華院由緒書」(『京都浄土宗寺院文書』)
865貞観五年慈覚大師圓仁により、諸堂成就。円仁は退任して叡山へ戻る。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
866貞観六年慈覚大師圓仁寂。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
951天暦五年火災に罹り全焼。「清浄華院誌要」(『浄全』20)『京都坊目誌』『京都市の地名』
952天暦六年村上天皇の勅で再建。御内道場となる。『京都市の地名』『京都坊目誌』
976貞元元年八月十五日震災にかかる。円融天皇の勅で再建。「清浄華院誌要」(『浄全』20)『京都市の地名』『京都坊目誌』
年不詳後白河法皇が法然上人に帰依し、清浄華院を与える。四宗兼学道場から浄土宗となり、故に法然を中興の開山とする。『京都坊目誌』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1174承安四年後白河法皇、法然に寺を賜い、これにより浄土専修となる。『京都坊目誌』
1212建暦二年源氏女等、三条坊門高倉の土地を亀石兵衛に売り渡す。宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1230寛喜二年女紀氏正親町烏丸の地を平左衛門に売り渡す。宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1263弘長三年扶桑京華志の記述から逆算した向阿上人の生年。『扶桑京華志』
1265文永二年真如堂縁起の記述から逆算した向阿上人の生年。『真如堂縁起』他諸本『向阿上人絵詞傳』(『浄全』)
1266文永三年文明十五年(1483)撰「三井続燈記」による向阿上人の生年。「三井続燈記」(『向阿上人全集』)
1279弘安二年向阿上人14才で三井寺に入る。「三井続燈記」(『向阿上人全集』)
1279弘安二年近い頃、三井寺に浄華房證慶という人物がおり、向阿(證賢)はこれに近い人物に師事したという説がある。高瀬承厳「向阿證賢の事蹟及び其の思想」(『佛教学雑誌』)
1287弘安十年向阿上人、23才にして発心し如意寺の大門柱に歌を書きつけ離山する。京都へ入り、華開院にて隠遁の身となる。「真如堂縁起」(『向阿上人全集』『京都坊目誌』なと゜)
1287弘安十年僧向阿により中興。その地二条万里小路とす。→真如堂縁起を引いてこの年、向阿が浄華院を移転したと諸本にあるが、真如堂縁起にはこの年に向阿隠遁の身となるとあるので、おそらく読み違いである。『京都坊目誌』など
1288正応元年三井寺を出て鞍馬多聞天へもうで、西谷(仁和寺西谷の禮阿)を尋ねて念仏の道に入る。(「三井続灯記」を引いて向阿上人により淨華院の開かれた年とされるが、「三井続燈記」にはこの年三井寺を離れたという記述しかない。)「三井続燈記」(『向阿上人全集』)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
年不詳浄華房証賢向阿、二条万里小路に移転、専修念仏の道場とする。『京都市の地名』(「後愚昧記」)
1303乾元二年三条坊門高倉の専修院の仏殿、聖教等を専空が向阿に譲る。(浄華院文書)「専空譲状」(『京都浄土宗寺院文書』)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1305嘉元三年藤原氏など、正親町烏丸の地を但馬僧都に売り渡す。宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1309延慶二年向阿上人、弟子の玄真に往生至要決を授ける。『向阿上人絵詞傳』(『浄全』)
1316正和五年向阿上人、弟子の圓寂に往生至要決を授ける。『向阿上人絵詞傳』(『浄全』)
1316正和五年向阿上人、弟子の玄心に授手印(浄華院本)を授ける。宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1322元亨二年向阿上人、弟子の忠空に授手印(大超寺本)を授ける。宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1322元亨二年龍谷大学所蔵『無量寿経抄』巻七に「三条之坊門高倉専修念仏院」の記事が見える。宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1322元亨二年知恩院蔵古版阿弥陀経奥書を書く。鷲尾順敬「浄華院及び開山向阿上人」(『歴史地理』12巻5号)
1323元亨三年向阿上人、弟子の清源に授手印(浄華院本)を授ける。宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1321~1324元享頃この頃向阿上人、三部仮名抄を著す。『三部仮名抄諺註』(序)
1327嘉暦二年向阿上人、弟子の是心に授手印(浄華院本)を授ける。宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1331元弘元年向阿上人、弟子の聖阿に往生至要決を授ける。『向阿上人絵詞傳』(『浄全』)
1332元弘二年向阿上人、弟子の欣浄に授手印(浄華院本)を授ける。宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1333元弘三年亀山天皇息恒明親王、高倉の地を先度に任せ淨華院向阿に安堵する。(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1336建武三年向阿上人、弟子の玄心に黒谷上人御作阿弥陀如来形像を相伝する。(浄華院文書「向阿譲状」)『京都浄土宗寺院文書』・宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1336建武三年六月二日。向阿上人寂。(「三井続燈記」)(『向阿上人全集』p.123)他
1339暦応二年少将通数(中院通冬弟)朝臣逐電、故向阿上人弟子聞智を戒師として当院で出家。(「部類抄」参照「中院一品記」『歴代残闕日記』)『京都市の地名』宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1339暦応二年足利尊氏が等持寺を建てるのに際して、土御門室町へ移転。(後愚昧記)『国史大辞典』宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1339暦応二年土御門烏丸に移転。元浄華院町の名が残る。『京都市の地名』『京都坊目誌』
1343康永二年恒明親王安楽寿院領東久世庄を土御門通房に安堵す(久我家文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1344康永三年浄華院、正親町烏丸の地を藤原氏女より寄進される。(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1345貞和元年六月二日。向阿上人寂。年八十三。臘(僧の修行の年数)六十。『扶桑京華志』(『京都叢書』)『向阿上人絵詞傳』
1348貞和四年恒明親王、浄華院に安楽寿院領西谷庄を寄進する。(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1351観応二年駿河入道という人物が上洛、土御門室町の浄華院に住居する。(「観応二年日次記」『続群書類従』29下 雑部)『京都市の地名』・宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1351観応二年九月六日、恒明親王死去。(「園太暦」)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1357延文二年恒明親王息全仁親王、西谷庄を浄華院へ安堵する。(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1361康安元年四月三日浄花院長老玄心上人(割注・浄土宗最長、最学抜群僧也)此四五日円寂の由之を聞き、よって状をもって付属の弟子證法房に訪ね、返事あり。終焉本意の如し云々。故入道(三条実重)相国以来代々の師檀なり。即代々菩提相訪ねし事。『後愚昧記』p.18
1363貞治二年三月二十四日浄華院長老證法(玄教、故玄心上人附弟、浄土宗鎮西流なり)、使者僧敬法(貞熈僧全)送らる。英職を尋ね之を聞くをもって、来27日先師上人第三回忌辰なり。願文・諷誦、書き送るべきの由これを示し、領状了。『後愚昧記』p.56
1363貞治二年三月二十五日晩に及び敬法また来る。願文・諷誦草(唐橋在範卿の草)並びに料紙(高檀紙下絵あり。諷誦は只の高檀紙、下絵なし。)之を持ち来る。『後愚昧記』p.56
1363貞治二年三月二十六日午刻許、昨日の願文・諷誦之を書き出す。書状をもって表書き、浄花院方丈。礼節恐々敬白、判。彼の僧、故向阿上人の時より代々知識あい憑むの故なり。故殿(三條実忠)の後、かつこの如し。進取の所送贈を欲して、喜悦の由、返報あり。『後愚昧記』p.56
1364貞治三年証法、浄華院長老職後見を当麻南別所聞智に頼み置く。(「中院一品記」『歴代残闕日記』)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1365貞治四年六月五日急死した中御門宣明 (1302 - 1365)の遺体が翌日当院に送られ、剃髪、法名乗誓を授けられる。(「師守記」)『京都市の地名』
1365貞治四年六月五日中御門宣明薨去、翌日浄華院に送られ、出家、法名乗誓云々。『師守記』第八(p.254)
1370応安三年二月九日万里小路大納言仲房卿、禁裏詩御会退出の後、中風の所労さらに発し、大略死門の間、浄華院長老敬法房(貞熈僧全)善知識となす為これを招請す。然して次第に立直し、殊なき事云々。『後愚昧記』p.218
1375永和元年浄華院、正親町烏丸南頬敷地を検非違使庁別当当宜より安堵される。(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1380永徳元年後愚昧記永徳元年十二月二日条に「等持寺件寺当時禅院也。元来号浄華院浄土宗寺也。向阿上人開山也」云々とある(「後愚昧記」)『京都坊目誌』
1381永徳元年十二月二日『後愚昧記』に等持院は「当時(現在)」禅院であるが、元来浄華院という「当時(現在)」土御門室町にある向阿上人開山の浄土宗寺であったと記される。『後愚昧記』p.48
1383永徳三年敬法上人によって洛北某所に松林院が開基される。(「清浄華院誌要」によると松林院はもと松林坊といい、圓光大師久住の地であり、敬法上人が後円融上皇の戒師となった際、室町に寺域を賜い白河より移転、康応(1389)元年に院号と勅願所の綸旨を賜ったものと言う。出展不明)『京都坊目誌』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1385至徳二年七世證法上人玄教寂。松林坊の敬法上人(伏見帝皇孫、尊凞親王の子、六世玄心の弟子)が事務を兼務、八世となる。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1387嘉慶元年九月、敬法上人、後円融上皇に召され、固辞すれども聞かれず、圓頓戒を授ける。上皇より寺地を賜い、松林坊を白河から室町(正親町室町下)に移転、康応(?)元年に院号と勅願所の綸旨を賜る。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1398応永五年二月九日、敬法、浄華院長老職を定玄へ譲る。(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1398応永五年二月九日、敬法上人、浄華院長老職を九世定玄上人(万里小路大納言仲房の子、敬法上人の弟子、南都戒壇院にて満分戒を受け、大比丘となり浄土宗の具足戒の受持は上人より始まる)へ譲る。定玄上人、浄華院に住み松林院を兼務する。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1400応永七年敬法上人寂、大僧正号を贈られる。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1404応永十一年石山寺に参篭した隆尭が夢中で『三部仮名抄』を感得、清浄華院で学ぶ。『湖東三僧傳』隆尭本『三部仮名鈔』跋文
1404応永十一年三月二十三日興福寺別当大乗院門主孝円上洛、浄花院へ立ち寄る。「寺院細々引付」(『木津町史』資料編p.504)
1408応永十五年トウキ上人、金戒光明寺に後小松天皇より「浄土真宗最初門」の勅額を賜る。『黒谷志要』?(浄土宗全書)
1409応永十六年金蓮寺等と共に炎上。「月 日、浄花院四条道場炎上 (大乗院日記目録)」「又今夜焼亡正親町ゝ、次浄花院等云々、 (教言卿記)」「三月廿二日、夜丑剋浄化[花]院回禄、三月廿二日、四条道場廻[回]禄(東寺王代記)」「大乗院日記目録」「教言卿記」「東寺王代記」
1411応永十八年定玄上人、後亀山院の勅に応じて圓戒と阿弥陀経を奏説す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1416応永二十三七月一日浄華院の脇より出火、公家邸や後小松院仙洞御所などを焼く。
1419応永二十六年浄厳坊隆尭が『三部仮名鈔』開版する。応永末、元天台僧にして三部仮名抄を傾信して浄土門に入った浄厳院隆尭法印により、三部仮名抄が開版される。(版木は応仁の乱で焼失したという)""隆尭本『三部仮名鈔』三部仮名抄諺註(序)
1421応永二十八年定玄上人、十世等熈上人(敬法上人弟子、俗姓不詳、一説に万里小路嗣房息)に跡を譲り隠遁する。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1423応永三十年十世等熈上人、二十八歳にして松林院に住し浄華院を兼管す。(定玄伝との相違は「誌要」でも指摘される)「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1425応永三十二年称光天皇御悩、諸寺社の祈祷あれど験なく、万里小路時房をしてを召して等熈上人を召し、上人、弟子を引き連れ七日間の別行、奏説をもって呪願せられしかば結願にいたりて玉躰安静に復す。後小松上皇これを聞き、圓戒を受ける。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1425応永三十二年七月二十八日称光天皇、浄華院長老上人トウキを召す。浄土法文聞召し、時々念仏勘へもうされる。『兼宣記』
1425応永三十二年七月二十八日称光天皇御病激しく、御祈祷がある。法華経などが上げられ、御座の左右に阿弥陀三尊・地蔵像などを掛ける。称光天皇は年来浄土信仰が厚く、「浄華院聖人(等熈)」を召される。「年来浄土御信仰也、仍可召浄花院聖人之由、被仰万里小路大納言、彼人縁人也、仍即参入、可為御善知識之由被仰云々」『薩戒記(写本)』(二 大日本古記録 岩波書店 p.186)
1394~1427応永年中称光天皇により阿弥陀堂が建立される。(四脚門(勅使門)も同時の建立)京都坊目誌浄土宗寺院調書(『浄全』20)「清浄華院誌要」(『浄全』20)
年不詳称光天皇の勅によって足利義教、仏閣僧坊を改築し京都第一の壮観となる。(称光天皇在位1412-1428)『京都坊目誌』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1429正長二年六月六日、等熈上人が後圓融、後小松・称光三天皇の戒師となり香衣綸旨を宛てられ、同十一月の参内時に菊紋称入紺地金襴の大衣を賜る。これより当院住職は宗祖行状に準じて黒衣であったのを香衣を着ることとなり、入院儀式の際には勅請の綸旨を受けて紫衣をその都度勅許せられ、晋山の儀式の後、参内天恩を謝するを常軌とする。『京都市の地名』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1429正長二年等熈上人が「御所御日記」を記し、業績が伺える。清浄華院由緒書『京都浄土宗寺院文書』
1429永享元年浄華院仏殿棟上。『建内記』
1429正長二年七月十日浄華院仏殿上棟なり。以後造営いまだ遂げざるに、此の節御奉加によって周備のところなり。仏壇同じく沙汰いたし云々。万里小路時房、女性、国継(斉藤氏。万里小路家家司)、仁和寺宮、など方々より寄付、室町殿もこれを賀し、仙洞(称光院)より女房奉書が出され寄付があった。『建内記』
1430永享二年等熈上人、将軍義教に許しを得て叡山黒谷を真如堂近くに再興、浄華院の法式を移して浄華院の兼管とし、定めて圓戒授与の道場とする。これが新黒谷金戒光明寺となる。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1432正長五年七月十日。浄華院仏殿上棟之造営以後、未遂此節室町殿依奉加周備也。長老等熈上人。云々。(建内記巻三)『京都坊目誌』(建内記巻三)
1434永享六年十二月十四日清祐法眼(?)記録に「等持寺御八講、為一座務御出仕、自浄花院御出」とある。文明二年六月条に抜粋。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」五十五p.437
1434永享六年三月十五日「故清祐法眼之記録」に十五日室町殿延年のため「寺務」(?興福寺?)御上洛、当日「自浄花院御出」とある。「尋尊大僧正記」文明二年六月条に抜粋。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」五十五p.436
1434永享六年三月十五日夜、室町殿で延年があり、大乗院尋尊、浄華院より御出仕。『大乗院寺社雑事記』「大乗院日記目録」二p.332
1435永享七年将軍足利義教備中国草間村の地頭職を伊勢貞国に宛行う(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1436永享八年十二月二日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に「如例」入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.432)
1436永享八年閏五月十九日後崇光院(伏見宮貞成親王)、公家数名とともに浄華院の風呂に入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.390)
1436永享八年閏五月十九日後崇光院(伏見宮貞成親王)、邸に浄華院長老が参ったため前日の風呂の礼を申し、対面。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.390)
1436永享八年六月十日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に「如例」入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.393)
1436永享八年六月三十日後崇光院(伏見宮貞成親王)、公家数名とともに浄華院の風呂に入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.399)
1437永享九年叡空所持三部経の阿弥陀経裏に「清浄華院之由記」が記される。叡空所持三部経
1437永享九年三月十八日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.457)
1437永享九年五月五日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に「如例」入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.467)
1438永享十年四月二十四日浄華院風呂女中入。予(後崇光院・伏見宮貞成親王)違例之後未入。乃例日之間不入。男共入。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.539)
1438永享十年六月二十九日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に入る。「女中先沐浴。次予入。」(現刊の『看聞御記』永正11・12年分が欠けている。)『看聞御記』(続群書類從完成會編P.553)
1439永享十一年七月五日(義教?)浄華院へ御成。(相国寺?)長老御相伴。御給仕は当寺(相国寺)より参る。浄華院前住松林院にお目にかかる。また普勧寺にもお眼にかかる。すなわち十緡(銭刺し)を献ず。また大愚和尚行脚事を披露。『蔭涼軒日録』p.96
1439永享十一年七月六日(足利義教?)、栗棘庵(東福寺)へ御成。浄華院の梅木を来秋献ずべきの旨、使命こうむる。『蔭涼軒日録』p.96
1439永享十一年八月十二日正親町三条公雅十三回忌のため、上御台(正親町三条尹子)の沙汰により、聖護院にて庭儀曼荼羅供、泉涌寺にて五部大乗経頓写など各寺々で法要があり、浄花院おいてもこの日まで(至今日)七日間の如法念仏が行われた。他にも作善が行われる。『師郷記』(三 史料纂集 p.20)
1440永享十二年十月二日(足利義教?)、三条殿へ御成。戒壇院(叡山?南都?)・浄華院にて来五日に「御逆修」、作善並びに勤行衆を書き立て、お目にかける。『蔭涼軒日録』p.135
1440永享十二年十月三日李瓊真蘂(蔭涼軒主)、(足利義教?に)今月の諸寺院への御成の日を伺う。来る五日、等持院・浄華院にて「御逆修」、両所へ要脚(費用)且つ百貫文遣わすべきの由仰せ出らる。『蔭涼軒日録』p.135
1440永享十二年十月五日等持院・戒壇院・浄華院にて(足利義教?)御逆修。今月よりこれ始まる。この三所各六百貫文送るべきの由、勢州(伊勢氏)をもって仰せいださる。『蔭涼軒日録』p.135
1440永享十二年十月七日(足利義教?)、逆修にかかわる三所へ寄進する。等持院戒壇院へは六百貫文。浄華院へは百貫文おくる。(「御逆修」の)一七日の分なり。漸く請け取るべきの由もうさる。故、かつ之を贈る。『蔭涼軒日録』p.136
1440永享十二年十月八日等持院・戒壇院・浄華院より寄進の「請取」が来る。(足利義教?へ)お目に懸け奉る。『蔭涼軒日録』p.136
1440永享十二年十一月十二日等持院・戒壇院・浄華院より一千貫文寄進の「請取」が来る。(足利義教?へ)お目に懸け奉る。『蔭涼軒日録』p.139
1440永享十二年十一月晦日(足利義教?)御逆修満散。『蔭涼軒日録』p.140
1440永享十二年十一月九日(足利義教)、(蔭涼軒主・李瓊真蘂)へ御逆修の要脚(費用)を等持院・戒壇院・浄華院へ送るべきの由おおせ出さる。三ヶ所各一千貫文。『蔭涼軒日録』p.139
1440永享十二年十二月二日(蔭涼軒主・李瓊真蘂)、等持院・戒壇院・浄華院御逆修の作善並びに納下帳を(足利義教に?)、被献。然りと雖も御覧なし。『蔭涼軒日録』p.140
1440永享十二年十二月三日浄華院、(御逆修餘銭寄せらるを)御礼のため(蔭涼軒へ)まいらる。『蔭涼軒日録』p.140
1441永享十三年正月二十二日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.600)
1441永享十三年三月十九日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に入る。(嘉吉元年二月十九日条の誤りか?)『看聞御記』
1441.219嘉吉元年二月十九日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に「如例」入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.604)
1443嘉吉三年十二月二十六日後崇光院(伏見宮貞成親王)、浄華院の風呂に入る。「旧月精進如例。先女中入」。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.723)
1443嘉吉三年二月二十~二十二日後崇光院(伏見宮貞成親王)、南朝小倉宮の叛逆の噂のため二十日の夜、楽器や大事具足を「一條土蔵(敷地)」へ預けるが、噂が本当であるとの情報から御所周辺が騒がしくなり、二十二日になって預けてあった楽器を浄華院の文庫へ、文書を伏見土蔵へ移す。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.646)
1443嘉吉三年五月五日後崇光院(伏見宮貞成親王)、公家数名とともに浄華院の風呂に入る。『看聞御記』(続群書類從完成會編P.668)
1446文安三年等熈上人寿像の讃が藤原時房によって記される。清浄華院等熈寿像賛『京都浄土宗寺院文書』
1446文安三年等熈上人に國師号が贈られる。→『京都浄土宗寺院文書』解題によると等熈上人寿像の賛より推測されたもので『諸宗勅号記』に記される寛正三年が正しいとする。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1446文安三年正月十六日中原師郷、高倉永豊宿所に赴き、浄華院長老と参会。(高倉永藤の年忌法要か?)『師郷記』(四 史料纂集 p.55)
1447文安四年秋中原師郷、如法念仏を修させる。(文安五年正月十六日条に「為今日」とあり、高倉永藤追善のためか)『師郷記』(三 史料纂集 p.208)
1448文安五年正月十六日高倉永藤の十三回忌法要があり、金戒寺長老(聖深・浄華院前住)が二十五三昧、諷誦を修す。『師郷記』(三 史料纂集 p.208)
1458長禄二年八月二十一日浄南院清承法橋の子・浄華院良俊が、(在南都の大乗院経覚へ)僧扇五本、杉原十丁などを持ち来る。対面のあと盃を進め、絵一双を送る。『経覚私要鈔』(第四p.57史料纂集)
1458長禄二年四月二十九日(大乗院)経覚、(大聖院)斎尊の上洛の伝馬をもって教法院玄刹に下向を促す書状を送るが、浄華院長老深秀が退院して寺領の件で揉めているとして断られる。『経覚私要鈔』(第四p.15史料纂集)
1462寛正三年等熈上人が永享帝(後花園天皇)より佛立恵照國師号を贈られる。「鎮流祖傳巻第四」浄華院等熈國師傳(『浄全』)『諸宗勅号記』(未確認)
1462寛正三年十一月十八日大乗院尋尊へ浄花院の松林庵(小林庵)来る。百疋持参。松林庵(玄周)は、万里小路内大臣時房の子(玄周)である。「長老坊上葺事故下向了」。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」二十九p.256
1462寛正三年十一月十七日大乗院(興福寺)尋尊へ京都浄花院松林庵(小林アン)僧玄周坊(玄同坊)下向、「長老坊上フキ勧進」の事、「任例被申之云々、其旨自寺務蒙仰者也」。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」二十九p.256
1462寛正三年八月十二日等熈上人、後花園天皇より国師号を賜う。後花園天皇勅書『新撰往生伝』三
1462寛正三年六月十三日来る二十日、(足利義政)浄華院御成につき、当寺(相国寺)より御給仕出べきのこと、並びに愚老(蔭涼軒主・李瓊真蘂)御相伴参るべきの事、勢州(伊勢氏)之を知らされ、すなわち之を伺う。『蔭涼軒日録』p.348
1462寛正三年六月十九日(蔭涼軒主・李瓊真蘂)、来る二十日(足利義政)浄華院御成につき、知らせ奉る。『蔭涼軒日録』p.350
1462寛正三年六月二十七日(足利義政)、浄華院御成。進物の請取を御目に懸け奉る。『蔭涼軒日録』p.352
1462寛正三年六月二十日(足利義政)浄華院御成。浄華院御成並びに御点心の事、報せ奉る也。御成。御点心。住持並びに某相伴に召し加えらる也。御小袖三重、御扇子十柄、献ぜらる也。前住阿弥陀院御目に懸からるなり。香合一箇。杉原十帖之を献ず。(中略)阿弥陀院進上の杉原を改め、小高檀紙になす也。常住方に加え小高檀紙をもってなり(?)。『蔭涼軒日録』p.350
1463寛正四年七月五日大乗院尋尊上洛中。二条殿へ参り、浄花院へ向かい、方丈と対面。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」三十三p.332
1466文正元年五月二十七日来月九日(?)、伊勢守(伊勢貞親)の老父十三回忌が浄華院深心院で営まれる予定であると記される。『蔭涼軒日録』p.653
1466文正元年四月十九日浄花院の深心院、南都へ下向。「弉舜寺主坊」に宿る。深心院は伊勢守の兄弟である。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」四十五p.59
1467応仁元年九月十三日、細川・山名両陣交戦し、本院皆兵災にかかる。『京都坊目誌』(応仁記下巻)
1467応仁元年九月十三日、細川軍が三万騎を率いて境内に陣を張り、山名軍押し寄せ焼攻めにし、本院堂舎仏閣一時に焼失。門末八十四所悉く赤土となる。住職をはじめ僧俗三十六人死す。その後も逃れた人々が戻り草房を結ぶが戦乱やまず、山名軍に攻められ七十余人が焼き殺される。のち暫く住僧なく暫時空き地となる。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1467応仁元年応仁の乱により炎上。『京都市の地名』(劫濁発心記・応仁元十二月誌)
1467応仁元年土御門北万里小路の三宝院に安富元綱(東 軍)が内裏(室町第)の警護の為陣を張り、西軍に攻められ、三宝院は落ち、続いて浄華院(万里小路二条)も攻められ炎上。『京都坊目誌』(応仁記下巻)
1467応仁元年十世等熈上人滅後六ケ年後に応仁の乱が起き、十一世僧尋上人良秀以降十三世阿縁上人聖深まで行跡不明。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1467応仁元年九月十三日応仁の乱により公家や武家の屋敷とともに浄花院が焼かれる。『宗賢卿記』
1467応仁元年六月十三日(十一日か?)赤松勢が浄華院に陣取る。(応仁の乱)所々で赤松勢高名が討死。大乗院尋尊、「希代之事也」と記す。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」四十九p.200
1467文正二年一月二日御霊合戦。応仁の乱勃発。
1468応仁二年応仁の乱の戦闘状況。山名方が室町殿に押し寄せ、公家屋敷数軒と共に浄華院を焼く。「宗賢卿記」『戦国期公家社会の諸様相』中世公家日記研究会 和泉書院 1992 p.231
1477文明九年十一月二十日幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ応仁の乱が終結する。
1478文明十年室町幕府、横領された浄華院領江州富立名などの返還を命ずる。(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1478文明十年室町幕府、横領された浄華院領城州宇治庄内散田などの返還を命ずる。(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1478文明十年室町幕府、横領された浄華院領城州竹田庄積善寺田などの返還を命ずる。(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1478文明十年室町幕府、横領されていた浄華院領越前国西谷庄の返還を命ずる。(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1479文明十一年十二月二十九日。「親長卿記」に親長居住の正親町の敷地を「自浄華院掠申給了、今日被返付」という記事がある。『山城名勝志』親長卿記(『京都叢書』)
1479文明十一年十二月廿九日甘露寺親長、前年に浄華院より掠めていた正親町の居住敷地(東西十三丈四尺、南北十四丈五尺)を「歎申入」があったので返還する。『親長卿記』(第三p.117史料纂集)
1480文明十二年九月十五日 伏見殿御門に一揆押寄せ門前放火し浄花院焼く。禁裏騒動す。浄花院投石され占拠さる。「親長卿記文明十二年九月」条
1480文明十二年浄華院、辻秀宗の狼藉を訴える。(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1480文明十二年九月十五日土一揆が起き伏見殿(邦高親王)の門前に火を放ち、禁裏騒動。同じ時分浄花院へ押し寄せる。甘露寺親長も方々で土一揆が起きているとして夜、参内する。『親長卿記』(第三p.158 史料纂集)
1480文明十二年八月五日京都浄華院、正親町烏丸の敷地を安堵せん事を請う。()「京都御所東山御文庫記録」(甲百十○山城 諸寺 浄花院)
1480文明十二年八月二十五日浄華院に隣接した薬師堂が敷地の安堵を謝す。『御湯殿上日記』「京都御所東山御文庫記録」
1483文明十五年十二月二日。十四世玄周上人、松林院に住み、浄華院の再建に着手、同十九年落慶。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1483文明十五年十二月。仏殿その他再建。『京都坊目誌』
1483文明十五年八月三日。乱以後仏殿なく、この年本尊遷座、仏殿その他再建。『京都坊目誌』
1485文明十七年九月十一日中院通秀へ浄花院来臨、いささか法談。『十輪院内府記』(p209)
1485文明十七年九月十五日中院通秀、浄花院より菊花、柿籠などを恵まる。『十輪院内府記』(p209)
1485文明十七年九月二十九日浄華院、後土御門天皇より三尋木の奉加をうける。『御湯殿上日記』
1485文明十七年七月十七(八)日中院通秀へ、浄花院より三条実隆、勧修寺経茂、来飯。『十輪院内府記』(p202)
1486文明十八年七月二十九日大乗院尋尊上洛中。御拝賀の行列があり、「浄花院之小門之南」に「若宮(伏見宮邦高親王)御桟敷」が立つ。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」百二十四p.470
1486文明十八年七月二十九日将軍(義教)の御拝賀の行列があり、「伏見殿親王(邦高親王)」が「浄華院土御門室町」に御桟敷を構え見物する。『長興宿祢記』(『大日本史料』)
1486文明十八年九月十七日春日局(評定衆攝津氏出身)が浄華院へ人を進め、晩に及んで中院通秀へ彼の寺より加賀守富樫氏(政親)、吉岡氏へ遣わす状など到来。(春日局袈裟進人於浄花院、及晩自彼寺遣加州状等到来、富樫・吉岡)(八月四日に中院通世が富樫を訪ね、九月九日にはその返礼に富樫が中院通世を訪ねている。)『十輪院内府記』(p242)
1486文明十八年正月十九日中院通秀、浄華院へ向う。「向浄花院、種々活計、声明養耳了」『十輪院内府記』(p219)
1486文明十八年正月十五日中院通秀、恒の如く粥など(正月の)祝い箸を終える。浄華院玄周来臨、「柳一荷・両種等也」。夜第三の毬杖がある。『十輪院内府記』(p219)
1486文明十八年正月十八日中院通秀、浄華院に行こうとすると明日来るべしの由。「欲向浄花院。明日可来之由、於 路次被示、仍自西洞院辺帰了」『十輪院内府記』(p219)
1486文明十八年二月十六日中院通秀、入江殿へ参り談義を聴聞する。浄華院玄周が阿弥陀経を申される。『十輪院内府記』(p222)
1486文明十八年六月三日中院通秀に浄華院長老と松林院玄詠が喝食を伴い訪れ、通秀の養子について話す。(浄華院長老并松林院玄詠、喝食同道入来、為予養子之由也、樽随身、勧三献了、西御庵(三時知恩寺智周尼)入御、御口入之事也)『十輪院内府記』(p234)
1487文明十九年(長享元年)八月三日、諸堂再建落慶、本尊を奉安す。『京都市の地名』(親長卿記)
1487長享元年八月三日今日浄花院本尊遷座なり。乱後仏殿なし。今度形如新造造畢なり。『親長卿記』
1487文明十九年正月二十三日中院通秀、浄花院へ向い、帰路に安禅寺へ参る。『十輪院内府記』(p249)
1487文明十九年正月十六日中院通秀に浄花院玄周が訪れる。(少々有来客、浄花院入来、棰随身、酔倒了)『十輪院内府記』(p249)
1487文明十九年九月十四日(足利義尚六角氏征伐出陣のため)、浄華院相尋ねられの条、この尋ね答えて曰く、来る十八日参賀せらるべくの由、相議り、定む。万一相違あるは、これより白入れ云々。『蔭涼軒日録』p.1087
1488長享二年十四世玄周上人、女院嘉楽門院に召され善知識となる。同年七月浄華院を辞す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1488長享二年五月十一日後土御門天皇、浄華院へ「御き(御忌?)」につき寺中の「さうゑふん(僧衣分?造営分?)」として二千疋つかわされる。御使いは葉室教忠。執着かたじけなしとて伺候していろいろもうさる。『御湯殿上日記』
1488長享二年五月二十七日後土御門天皇、浄華院の開山筆の本尊を拝みたきよし覚せられて、長老(玄周)持ちてまいらるる。御対面ありて御十念あり。斟酌ながら執着のよし申さるる。(『大日本史料』 その他に「證賢向阿筆」の「阿弥陀仏像」を叡覧、とあるが永享の目録では既に法然を開山としており(他だしこの目録の年代は考証を要する)、「開山」だけでは向阿筆の阿弥陀をさす物か分からない。)『御湯殿上日記』
1488長享二年七月十四日浄華院玄周示寂、興慧和尚の号を贈られる。『親長卿記』
1488長享二年正月二十七日中院通秀、浄華院に招かれる。小盃酌あり。(招浄花院有小盃酌、廿四日被送棰・折等之謂也、三献)『十輪院内府記』(p.269)
1488長享二年正月十七日中院通秀、浄華院玄周へ向、種々活計、老情を慰む。(向浄花院、種々活計、慰老情、西御庵参会、棰一荷持向了)『十輪院内府記』(p.268)
1488長享二年八月十四日小槻長興、浄花院に詣で如法念仏を聴聞する。「五代之師祖」(定玄?)の三十三回忌追善のため、八日より七日間修められ、僧衆七十余人が参加している。『長興宿禰記』(史料纂集 p.225)
1488長享二年六月二十七日後柏原天皇、清浄華院住持玄周南江を召して阿弥陀経を講ぜしめる。「けふより上花院(玄周)あみたきやうよませらるる。ふしみ殿(邦高親王)・あんせん寺(観心尼)・れんき(永崇)・はんせう(等貴)御まいり」『御湯殿上日記』
1488長享二年六月二十八日27日に続き、浄華院玄周、後土御門天皇に召され阿弥陀経の購読をする。「けふもたんきあり、ふしみ殿・おか殿(大慈光院宮))・れんき御まいり」「同前御談義」『御湯殿上日記』『親長卿記』
1488長享二年六月二十九日27日に続き、浄華院玄周、後土御門天皇に召され阿弥陀経の購読をする。「けふもたんきあり、昨日の御人す御まいり」「今日も内裏にて御談義あり。」『御湯殿上日記』『実隆公記』
1488長享二年六月二十五日後土御門天皇、甘露寺親長に近日あるべき浄華院の講演に懸けらるべき御簾、蘆簾にしからざるかとお尋ねあり。親長、内儀の事については蘆簾なく、常に翠簾に何事候やとの由申し入れる。『親長卿記』
1488長享二年六月二十六日甘露寺親長へ参台御談義について浄華院へ使いがある。条々尋ねられの旨あり。禁忌詞など、委細報せる。『親長卿記』
1488長享二年六月二十七日午後御所黒戸にて浄華院阿弥陀経の御談義を行う。奥御座敷中隔て、東西行きへ翠簾を懸け渡し、浄華院(玄周)は東間上壇へ、他、庭田雅行、甘露寺親長、甘露寺公兼、甘露寺元長などの朝臣などが別間で聴聞。『親長卿記』
1488長享二年六月二十七日浄華院長老禁裏内内において阿弥陀経を講ぜらる。『実隆公記』
1488長享二年六月二十八日浄華院長老黒戸において阿弥陀経を講ぜらる。近臣以下祇候。主上・親王方簾中御座、女中同じく候る。『実隆公記』
1489延徳元年室町幕府、横領された浄華院領江州富立名を返還す。(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1489長享三年四月二十一日汲古北堂逝去。浄華院引導。『蔭涼軒日録』p.1482
1489長享三年四月七日(蔭涼軒に)浄華院より使僧来たりて云う、明日、北等持において結縁諷経を勤むべしと。(軒主)他に在り返答あたわず。『蔭涼軒日録』p.1468
1489長享三年四月二十二日文殊院来りて云う。浄華院経贈る事(について?)。『蔭涼軒日録』p.1482
1492延徳四年五月十三日今日伊勢備中守殿北堂第三忌、浄華院において仏事あり。『蔭涼軒日録』p.2281
1493明応二年四月二十九日夜来浄華院之松房、三合二荷持ち来る。御所間において宴あり。深更に及ぶ、帰る。『蔭涼軒日録』p.2496
1493明応二年正月三十日北野天満宮社家松梅院、入江殿へ茎立(カブ、アブラナなどの野菜)を御寮より御進上云々、昨日浄花院長老が参られ、褐色に名づけらる云々。『北野社家日記』(四 史料纂集 p.27)
1495明応四年二月十三日後土御門天皇、浄華院の阿弥陀像・勢至像を礼拝。『御湯殿上日記』
1499明応八年六月十五~十八日後柏原天皇、清浄華院某を召して法談を聴し召され、十八日に及ぶ。『実隆公記』
1500明応九年五月二十四日興憲法印百箇日、浄花院において講問あり。しかし雨祈祷が重なったため聴衆なし。尋尊無念。「於浄(花脱カ)院講問在之、講師行学五師、門者実禅、客東北院大僧正、題遣相證性、院家・平坊講問被出事初云々。今日依雨祈祷老若指合故、丁(聴)聞衆一切無之、無念事云々。経供養在之、講(導)師東北院鈍色甲。『大乗院寺社雑事記』「尋尊大僧正記」百八十三p.420
1511永正八年十月二十三日室町幕府奉行人より浄華院塔頭無量寿院へ「千本御所中屋地并九段田」について奉書が発行される。「土御門文書」(『室町幕府文書集成』奉行人奉書篇下p.148)
1516永正十三年右大弁春房入道永正十三年三月記に曰く、国師(等熈か)の時代には供米七百石余、その上室町殿義教、大内介、朝倉家より各供米千俵の施納があり、院領も伏見、宇治、摂津武庫郡、江州栗太郡などにあったが、武家の横領、百姓一揆により掠めとられ、今は東山殿より光智院殿冥福の為に地子銭五十貫寄付ありといえども乱世ゆえ五、七年滞り漸々衰微しているとある。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1516永正十三年十月四日将軍義稙が浄華院長老に堂塔再興を許す。上杉本洛中洛外図に描かれる浄華院はこのとき造営の物と考えられる。「祈祷の事、例に任せ精誠を致さるべく候。次で当寺再興、諸末寺と相談し造営を遂ぐるれば然るべく候状、件の如し。永正十三十月四日 貞陸(伊勢)御調進 浄華院長老 」『室町家御内書案』
1521大永元年八月二十九日浄華院に夜盗が入る。『実隆公記』
1524大永四年六月六日晩、三条西実隆邸に華開院来臨。法然上人金色名号・同熊谷名号・一枚起請・被遣熊谷書状・浄花院開山手跡などを見せられ、法然上人御袈裟・御数珠などを同じく頂戴する。『実隆公記』(六 史料纂集 p.185)
1527大永七年十月二十七日火災で塔頭二院焼失。『京都市の地名』(実隆公記)
1533天文二年四月十九日知恩院の門徒、宮中へ越中西願寺(魚津市)香衣の御礼に来る。(西願寺へは文禄四年には浄華院が関わり勅額が送られており、本寺が換わっていることがわかる。)『御湯殿の上の日記』天文2.4.19(『富山県史』通史編Ⅱp.254)
1535天文四年五月十三日後奈良天皇に浄花院当住が礼参する、。浄花院当住御礼参(善妙院云々)、小檀紙十帖、香箱進上。『後奈良院宸記』(後奈良天皇日記)
1537天文六年十一月十九日清浄華院某、後奈良天皇に毘沙門天像をご覧にいれ、数珠を献ずる。『御湯殿上日記』
1538天文七年■月十七日新黒谷にて浄華院の談義がある。『親俊日記』p.58
1539天文八年浄華院二十世、浄華院霊宝目録を作成。(浄華院文書)宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1541天文十年浄華院役者によって金戒光明寺制法が定められる。「金戒光明寺制法」『京都浄土宗寺院文書』
1541天文十年四月五日鹿苑院主、入江殿に召され松尾明神祭酒に出席。帰りに清春庵にて吸物、酒あり、招りん玉庵相伴、酒二三返。「珠慶・宗祐・浄花院之衆有一員」。『鹿苑日録』十九 p.112
1548天文十七年室町幕府奉行人連署奉書がかかれる。「室町幕府奉行人連署奉書」『京都浄土宗寺院文書』
1548天文十七年十二月十五日新黒谷住持職について、室町幕府奉行人より奉書が発行される。(前住持が定めた法度を守らないため新黒谷を義絶していたが、妙心院の懇望があったので赦免したところ、本寺浄華院に断りなく他門の長老を住持としたのでこれを追出した。本末の関係を追認する。)「蜷川家古文書二四」(『室町幕府文書集成』奉行人奉書篇下p.445)
1548天文十七年五月十二日山科言継、亡父忌日の間、浄華院内松林院紹清を斎に呼び、相伴する。『言継卿記』
1548天文十七年四月十二日山科言継、亡父忌日の間、浄華院之僧松林院乗清を斎に呼び、相伴する。『言継卿記』
1548天文十七年四月晦日浄華院に於いて説教(秉拂)習あり。当軒(鹿苑院)より幼童三人これに赴く。まず、角粽、沙嬉(酒)。習一返、禅客(禅寺で住持が法語などを説いて指導する際、質問を行う役の僧。)は貞首座がこれを勤む。習以後餝飯。飯後帰来。『鹿苑日録』二十六 p.304
1558永禄元年十二月二日。二十八世住持三休が紫衣を正親町天皇より賜る。「正親町天皇綸旨」『京都浄土宗寺院文書』『京都市の地名』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1558永禄元年後六月七日。三好軍に組する軍に陣を張られる。『京都坊目誌』(万里小路惟房記)
1559永禄二年二十八世三休上人の代に金戒光明寺衆僧と霊宝について紛擾があり、公状を賜う。「室町幕府奉行人連署奉書」『京都浄土宗寺院文書』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1568永禄十一年金戒光明寺衆連判状がかかれる。「金戒光明寺衆連判状」『京都浄土宗寺院文書』
1579天正七年正親町天皇綸旨が書かれる。塔頭無量寿院が別に勅願所の申請をなすが容れられず、返って曲事とみなされ香衣を召し上げられる。「正親町天皇綸旨」『京都浄土宗寺院文書』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1580天正八年正月二十八日勅を奉りて勅願会を修し、六月八日に菊章法具并に紫衣を拝領する。宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(『大正大学研究紀要』71)
1582天正十年浄華院の寿全が山科言継に書籍を返還する。(言継卿記)
1583天正十一年京都奉行前田玄以により勅願所につき(軍勢の)寄宿以下諸役が免除される。「京都奉行前田玄以折紙」『京都浄土宗寺院文書』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1583天正十一年九月十八日山科言経、亡母陽春院御忌日のため、浄華院栄玉を斎に呼び、相伴する。『言経卿記』
1583天正十一年九月二日山科言経、亡父言継忌日の間、松林院性心を斎に呼び、相伴する。『言経卿記』
1583天正十一年十月十八日山科言経、亡母陽春院、唯心院(言綱室、言継養母)御忌日のため、(浄華院?)宗裕を斎に呼び、相伴する。『言経卿記』
1583天正十一年八月十八日山科言経、亡母忌日のため、浄華院栄玉を呼び、相伴する。『言経卿記』
1585天正十三年十一月二十一日、豊臣秀吉によって田中村五十石を安堵される。『京都市の地名』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1585天正十三年羽柴秀吉によって田中村五十石を安堵され、京都奉行より御帳引渡の使僧を遣すべき書状が出される。「羽柴秀吉朱印状」「京都奉行前田玄以折紙」『京都浄土宗寺院文書』
1587天正十五年亮叡上人遷化。鎮流祖傳巻第五・京師浄華院亮叡上人傳
天正年間末浄華院三十二世の道残が金戒光明寺に住し、浄華院と争論をおこす。『京都市の地名』
1588天正十六年三十二世道残により、聖教目録が記される。浄華院より借り出したものの目録と思われる。金戒光明寺道残筆聖教目録『京都浄土宗寺院文書』
1588天正十六年三十二世道残により、霊宝目録が記される。「清浄華院誌要」(『浄全』20)23-①-13
1589天正十七年豊臣秀吉、前田玄以により金戒光明寺との争論の裁定があり、光明寺は浄華院の末寺と定められる。「後陽成天皇女房奉書」「万里小路充房添状」『京都浄土宗寺院文書』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1589~1590天正十七年~ 十八年三十二世道残に関する文書がいくつか残り、このころ金戒光明寺と争論があった事をうかがわせる。京都浄土宗寺院文書
1590天正十八年豊臣秀吉によって現今の地に移転。京都坊目誌
天正年中豊臣秀吉によって創立より御所内にあった当院を現今の地に移転、これより葬儀吊祭などをおこなうようになる。(←向阿による移転などは無視されている。)「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1593文禄二年道残、金戒光明寺を独立させ無本寺となるを企て、認められず、上人面目を失う。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1593文禄二年九月二十三日道残上人寂。鎮流祖傳
年不詳松林院が日野光慶1591(天正19)年8月 ~ 1630(寛永7)によって再興され、浄華院境内に移転、別院とする。京都坊目誌
1595文禄四年六月二十八日越中西願寺(魚津市)に松林院や浄華院が仲介し、万里小路賢房が執奏して後柏原院(或後陽成)宸筆の勅額が送られる。西願寺蔵文書(『富山県史』通史編Ⅱp.254)
1602慶長七年越前国府中正覚寺長老の香衣が召し上げられる。「後陽成天皇綸旨」『京都浄土宗寺院文書』 
1605慶長十年十一月三日鹿苑院主、浄華院に赴き「習」。問禅(住持の説法に際し、聴衆の中から質問する僧が出て住持と問答をすること)鋭蔵主、八問に及ぶ。「習」が終わって、酒や菓子が出、喫茶。申刻より相斎作法。『鹿苑日録』四十四 p.274
1605慶長十年六月五日鹿苑院主、瑞華院殿葬礼のため出洛する。ケイカイ院(華開院か?)にて葬礼と逢い、日(日野)亞相、広(広橋)亞相科(裏)頭にて見物。点茶の仏事、浄花院西堂なり。下火(アコ)は浄華院住持長老が行い、鋤持ち法語をとなう。「不落耳痕」。経文下火古今少なし。葬礼後、鹿苑院主は相国寺へ帰り、行水。『鹿苑日録』四十四 p.250
1610慶長十五年金戒光明寺が独立する。『京都市の地名』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1613慶長十八年「諸公家法度」と共に「勅許紫衣法度」、元和元年7月17日に「禁中并公家諸法度」が発布。紫衣が幕府の統制を受けるようになる。
1615元和元年七月二十七日。徳川家康より黒印状を与えられる。徳川家康黒印状『京都浄土宗寺院文書』
1617元和三年七月二十一日。徳川秀忠より朱印状を与えられる。徳川秀忠朱印状『京都浄土宗寺院文書』
1621元和七年正月十日年頭の禁中諸礼、浄華院長老も参内御礼する。『泰重卿記』(二 史料纂集 p.72)
1623元和九年正月二十四日晩浄華院で法事がある。泰重、談義聴聞する。『泰重卿記』(二 史料纂集 p.135)
1624元和十年正月九日年頭の禁中諸礼、浄華院長老も参内御礼する。『泰重卿記』(二 史料纂集 p.194)
1624~1643寛永頃 四月二十九日融通寺(福島県若松大町か)が勅額を所望し上洛浄華院へ折り紙を出した事に関して、蒲生氏奉行が連署して労をねぎらう。蒲生氏仕置奉行連署状(会津若松市 興徳寺文書『福島県史』7 p.795)
1624~1643寛永頃 五月二十八日融通寺(福島県若松大町か)が勅願所となり、浄華院良久による書状が書かれる。浄花院良久書状案(新編会津風土記巻之十五 会津大町融通寺文書『福島県史』7 p.818)
1625寛永二年正月、前大納言充房卿奏請し、先例を追って諸道具に菊章を附し金紋先挟み箱を使用せしむ。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1625寛永二年六月十九日中山にて土御門久脩の火葬)が行われ、葬礼の日どり(二十五日真如堂にて葬儀)が決められる。泰重邸(予所)にて林太(浄華院僧)が七日の五時つとめを修す。公家や所領百姓などが弔問に訪れる。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.28)
1625寛永二年六月十八日朝、先日より危篤状態であった土御門久脩(泰重父)が逝去、方々から弔問の使いを給う。町人を詰めさせ、浄華院の僧林太を呼び<沐浴の作法を行わせ、晩に入棺する『泰重卿記』(三 史料纂集 p.28)
1625寛永二年六月二十一日浄華院僧林太、今日も久脩葬儀の五時のつとめを修す。泰重、久脩追善のために法華経書写を始め弔人とは会わず。浄華院きうかん・そいん両人を「とき」に呼ぶ。宗円が来たので布施を渡す。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.28)
1625寛永二年六月二十五日土御門久脩葬儀。浄華院長老も参列する。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.30)
1625寛永二年六月二十三日この日も久脩葬儀の五時のつとめを修す。泰重邸に真如堂衆訪れ、葬礼の始末を相談する。道具、人員の配置、服装などの用意も整う。鹿苑寺より諷経の申し出があるが過分として断る。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.29)
1625寛永二年六月二十七日泰重、二十五日久脩葬儀に参列した浄華院長老へ暑い時分にご苦労の由を伝え、諸白(酒)一荷、糗二十袋を送る。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.31)
1625寛永二年六月二十二日今日も久脩葬儀の五時のつとめを修す。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.29)
1625寛永二年六月二十日浄華院僧林太が土御門久脩の五時のつとめを修す。公家や所領百姓などが弔問に訪れる。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.28)
1625寛永二年六月二十四日久脩葬儀の普請が整い、真如堂にては近年及ぶもののない壮麗な葬礼になると世人が口々に言う。葬儀手伝いの人員(百姓)の配置が整う。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.29)
1625寛永二年六月二十六日泰重、久脩葬儀がすみ真如堂関係者と対面、「昨日儀式御精入、綺麗相見過分之由」などと話をする。浄華院林太来訪、飛鳥井三部経を送ると過分であると恐縮される。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.31)
1626寛永三年正月十四日年頭の禁中諸礼、浄華院長老も参内御礼する。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.78)
1626寛永三年六月十七日土御門久脩一周忌。土御門泰重邸、ひじ(法要の際に出す食事?非食=午後?)に浄華院の僧衆が来る。振舞二膳まで、法事聴聞の相伴なり。布施と菓子・茶・瓜などを貰って寺へ帰る。前日には兄弟の倉橋泰吉が作善のため斎の振る舞いをし、真如堂衆に法事ののち相伴している。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.107)
1630寛永七年四十一世良聖上人、勅請晋董紫衣参内の綸旨を賜う。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1630寛永七年正月十日年頭の禁中諸礼、浄華院長老も参内御礼する。諸門跡、院家に続いて諸寺長老の御礼、浄華院・松林院が初めに到着する。『泰重卿記』(三 史料纂集 p.220)
1633寛永十年十月十五日梶井宮二品入道良恕親王が霊宝目録を記する。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1636寛永十三年十一月九日。徳川家光により朱印状を与えられる。徳川家光朱印状『京都浄土宗寺院文書』
1636寛永十三年七月晦日、後水尾院の皇女秋光院宮を装す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1637寛永十四年二十四世良存上人、勅請晋董紫衣参内の綸旨を賜う。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1639寛永十六年五月四日鹿苑院主、彦山座主旅宿へ赴く。寺町浄華院也。『鹿苑日録』七十四 p.220
1644寛永二十一年二月十一日、後水尾院皇女、春香院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1646正保三年四十三世良故上人、勅請晋董紫衣参内の綸旨を賜う。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1647正保四年正月晦日、後水尾院皇女納宮、梅窓院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1647正保四年十一月一日鳳林承章(金閣鹿苑寺住持)、応山(近衛信尋)との対面中に浄華院内全隆孫弟子善応とはじめて会う。『隔蓂記』二(p.252)
1648正保五年正月五日金閣鹿苑寺へ浄華院内全隆孫弟子善応(禅応)が訪ねる。住持の鳳林承章は出京のため会えず。納豆を送る。『隔蓂記』二(p.287)
1648正保五年正覚寺(越前国府中カ)長老の香衣出世に付き綸旨奉書が出され、四十三世良故が添書きをする。(万治二年参照)清浄華院良故添状『京都浄土宗寺院文書』
1649慶安二年四十三世良故により「清浄華院霊宝目録」が記される。清浄華院霊宝目録『京都浄土宗寺院文書』
1649慶安二年三休の代に紛失していた「清浄華院向阿譲状」が堺の末寺誓源寺から発見され、霊宝箱に納められる。「清浄華院向阿譲状」裏書『京都浄土宗寺院文書』
1651慶安四年八月十日鳳林承章、今出川の藤谷中将(為条)の斎振舞に赴く。数名の相伴の中に「浄華院之正吟」がいたが、承章は初めて会った。終日打談し、囲碁があり、濃茶数種も喫し、夕食を食べて晩に帰山した。『隔蓂記』三(p.57.58)
1655明歴元年十一月十日鳳林承章(金閣鹿苑寺住持)、後西院天皇新造内裏に行幸、勧修寺経広宅にて見物、集まった人々の中に浄華院の僧が三人。『隔蓂記』三(p.716)
1656明暦二年四月二十一日、後光明天皇後自作の張籠涅槃像、同守本尊違厄不動尊を当院に奉安する。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1657明歴三年十一月十九日鳳林承章の晴雲軒(相国寺内)に浄華院善翁らが訪れ、「浮盃也」。『隔蓂記』四(p.299)
1658万治元年閏十二月九日鳳林承章、坊城常空(俊完)家へ赴く。芝山内記(?)三七日の斎に百万遍の僧と浄華院善翁とその弟(弟子?)善慶、斎僧が来居中。承章も相伴、喫斎。『隔蓂記』四(p.451)
1658明歴四年四月二十三日鳳林承章、勧修寺経広息経尚の元服式に呼ばれる。知り合いの出席者のなかに浄華院善慶(善應?)がいた。『隔蓂記』四(p.368)
1658明歴四年正月三日鳳林承章の晴雲軒(相国寺内)に浄華院善翁らが訪れ正禮、「年頭之禮」は当年が初。『隔蓂記』四(p.325)
1659万治二年正覚寺(越前国府中カ)長老の香衣出世に付き綸旨奉書が出され、四十三世良故が添書きをする。「清浄華院誌要」(『浄全』20) ※原典である「良故添状」には元号がなく、「亥」とだけあり、良故在住中では当年と正保五年の二回亥年があり、『京都浄土宗寺院文書』と『浄全』20とは相違がある。
1660万治三年二月二十三日浄華院内善翁が24日の茶の湯振舞に招くため鳳林承章を訪れる。承章、対面し「浮盃」。『隔蓂記』四(p.630)
1660万治三年二月二十四日鳳林承章、浄華院内善翁に茶の湯振舞に招かれる。三人相客。承章は小杉紙や末廣扇などを送るが、「音信(音信物=贈物)之禮」を終わって帰るまで善翁が言わず「如何々々」。この茶会の掛物は頼政筆の経の書切であった。茶のあと書院を出て薄茶を飲み、帰山した。会席は「殊外慇懃之様子」、承章初めての茶の湯であった。『隔蓂記』四(p.630)
1660万治三年正月二十九日浄華院内善翁が鳳林承章を訪ねる。他出のため会えず。茶巾箱入並びに火箸一双を送る。『隔蓂記』四(p.623)
1661寛文元年十二月五日蓮台寺で山科言總の葬礼があり、鳳林承章も野諷経に出席する。葬儀の引導者は「浄華院末寺之長老」であった。『隔蓂記』五(p.168)
1662寛文二年九月十四日、四十四世義天上人高譽、勅請晋董紫衣参内の綸旨を賜う。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1662寛文二年正月十三日晩、浄華院において常空(坊城俊完)の葬送が行われる。時分柄隠密ゆえ、鳳林承章は諷経に出席せず。吉権、西寿らは浄華院へ赴く。『隔蓂記』五(p.198)
1662寛文二年正月九日常空(坊城俊完)の葬送が浄華院に於いて行われると内々に伝わり、鳳林承章の晴雲軒にも葬送へ参加する西壽が来ていたが、が、13日に延引。『隔蓂記』五(p194)
1662寛文二年正月十四日作晩、浄華院において常空(坊城俊完)の葬送が行われ、坊城亞相(俊広)宅で「中陰」があり、鳳林承章、今日「贈経、法華八軸」を遣わしむ。『隔蓂記』五(p.200)
1664寛文四年正月十二日鳳林承章の所へ浄華院善翁が(年頭)禮のため浜名納豆・香煎を持参し来訪するが、承章他出のため対面せず。『隔蓂記』五(p.522)
1665寛文五年五月三日、四十五世雲竜上人天譽、勅請晋董紫衣参内の綸旨を賜う。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1665寛文五年七月十一日。徳川家綱により朱印状を与えられる。徳川家綱朱印状『京都浄土宗寺院文書』
1671寛文十一年自火により堂宇を焼く。京都坊目誌23-①-05
1671寛文十一年雲竜上人、黄金若干を賜い諸堂を修復せしむる。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1672寛文十二年禁裏や仙洞御所などから寄進を受け、諸堂を再建する。23-①-05・23-①-07
1672寛文十二年前年の火事より再建。京都坊目誌
1677延宝五年六月二十五日、霊元天皇皇女紅玉院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1679延宝七年八月六日、霊元天皇皇子台嶺院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1683天和三年十二月二十日、霊元天皇皇女梅香院(母は敬法門院)を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1685貞享二年六月十一日。徳川綱吉により朱印状を与えられる。徳川綱吉朱印状『京都浄土宗寺院文書』
1686貞享三年青森県むつ市常念寺へ阿弥陀如来坐像(国重文)を与える。『仏像集成』
1686貞享三年『三部仮名抄』刊行?(大正蔵原本?)http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/database.html
1687貞享四年湛澄による『三部抄諺註』が刊行される。続浄土宗全書八
1688貞享五年四月十五日、霊元天皇皇女台岳院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1689元禄二年湛澄『三部抄諺註』二刊が刊行される。『続浄土宗全書』八
1693元禄六年四月廿九日、霊元天皇皇子瑞林院宮、八月六日、後西院天皇皇子槿栄院を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1693元禄六年蓮池堂が「清浄華院由緒書」(御所御日記書抜)を記す。「清浄華院由緒書」(『京都浄土宗寺院文書』)
1693元禄六年十月、四十六世恢龍上人超譽、台命(徳川将軍の命)により住職となる。徳川の命で住職となるのは当世が初めて。ただし、前例によって勅請の綸旨を受ける。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1693元禄六年九月、霊元天皇皇子無量心院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1694元禄七年六月十日、東山天皇皇子、涼照院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1699元禄九年雲州松江誓願寺、雲州神門寺より由緒書が提出される。17-①-30・31
1700元禄十年霜月二十五日、増上寺役者より当寺祠堂財として金五百両を寄付される。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1701元禄十一年六月二十五日、東山天皇皇子、高岳院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1701元禄十一年十一月十六日、四十七世了秀上人章譽、台命により住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1707宝永四年勧修寺宮御気色により「政信」が法橋を宣叙すされる。23-①-13
1708宝永五年三月八日、宝永の大火で類焼。『京都坊目誌』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1708宝永五年宝永の大火により阿弥陀堂類焼。『京都坊目誌』
1708宝永五年宝永の大火により四脚門(勅使門)類焼。大正期にまで再建ならず。(←寛政七年に「高麗門」として再建願いを出し再建されている。)「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1708年不詳了秀上人の代に、霊元上皇が詫間法眼勝賀筆の泣不動縁起を狩野永納に写させたものを院宣を以て当院へ賜う。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1708宝永五年六月、庫裏を仮建て。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1708宝永五年十一月。境内東側の御土居を拝領する。東裏口をあけ表門を移築する旨の願いを提出する。17-②-03「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1708宝永五年庫裏仮屋(宝永大火焼失)が手狭なため増築願いを提出する。17-②-07・⑥-14
1708宝永五年新たに庫裏を建つ。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1709宝永六年再建を上願。『京都坊目誌』
1709宝永六年八月、江戸回向院にて六十日間の出開帳を行う。『武江年表』
1709宝永六年宝永五年類焼の本堂の普請が成就したむね届けを提出する。17-⑩-01
1709宝永六年宝永五年に焼失した塔頭無量寿院より再建成就の届けが提出される。17-⑨-01
1710宝永七年五月、四十八世哲冏上人龍譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1710宝永七年貞享年間に差し出した阿弥陀堂造作のための絵図に問題があり奉行所とやり取りがある。17-②-06
1710宝永七年十一月二十六日清浄華院阿弥陀堂、造畢。上棟云。『基長卿記』(『続史愚抄』)
1712正徳二年四月二十三日、霊元天皇皇女、臻(至)岸院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1712正徳二年十二月、鐘楼建設を計画する。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1713正徳三年四月廿九日霊元天皇皇子顕明院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1713正徳三年五月二十二日、東山帝の御旧殿を賜り大書院を建立する。浄土宗寺院調書(『浄全』20)『京都坊目誌』
1713正徳三年塔頭無量寿院より宝永五年に焼失した棟門再建の願いが提出される。17-⑨-03
1714正徳四年四月廿六日、本堂再建を計画す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1714正徳四年本堂再建の赦免を受け、絵図を描く。17-②-05
1714正徳四年拝領した旧御殿に足し木をして客殿等を再建する旨願いを提出する。17-⑥-01「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1715正徳五年土蔵を新規に建てる旨願いを提出する。17-⑥-09・10
1716享保元年九月十一日、霊元天皇皇女(内親王)勝厳院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1717享保二年東山天皇行幸の御殿を賜り御影堂とする。以後これを当院結構の模範とする。←同二十年と混同か?「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1718享保三年七月十一日。徳川吉宗より朱印状を与えられる。朱印状
1721享保六年十月、表通り仮門一棟を畳む。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1722享保七年十月「諸宗僧侶法度」に前後して諸本山の法度が定められ、十月「浄華院法度」が出される。
1724享保九年塔頭常行院で三月八日から十六日まで常行念仏四万日法要が行なわれる。17-⑨-04
1725享保十年湛澄『往生至要決略解』が刊行される。麗澤大学図書館田中文庫
1729享保十四年四月二十八日、朝廷に象が参内し中御門天皇に拝謁。二十六日から二十九日まで浄華院に象が逗留する。日鑑
1729享保十四年五月象往来に関する入用のあった社寺や町中に軒役などの免除がある。『京都町触集成』享保14年二四九
1729享保十四年四月二十七日明後二十九日、象が浄華院を出立するため、注意などの町触が出される。『京都町触集成』享保14年二二八・二四〇~二四三・二四九
1729享保十四年四月二十四日以前京都へ象が来る。そのための注意などの町触が出される。『京都町触集成』享保14年二三五・二三六
1729享保十四年四月二十六日将軍吉宗へ貢される広南国からの象が天皇御覧のため入京し、清浄花院に寄寓、午刻に到着。通兄、見物し「誠奇怪物也」云々。『通兄公記』(第二 p.39 史料纂集)
1729享保十四年四月二十八日天皇が象を御覧のため近習輩を召す。通兄も見物し、象が饅頭や竹の葉などを食べ、鼻で水を吸い口に移して飲むなどと記す。『通兄公記』(第二 p.40 史料纂集)
1732享保十七年八月十三日、東山天皇御母后、霊元天皇皇妃、敬法門院薨。九月三十日、御葬禮。百箇日には勅会法要を御修行。『京都坊目誌』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1732享保十七年九月、敬法門院御葬禮。「敬法門院留書」が記される。「敬法門院留書」23-②-1-16
1732享保十七年十二月十日敬法門院百ヶ日の法会が清浄華院にて行なわれ、公卿列席。『通兄公記』(第三 p.50 史料纂集)
1732享保十七年十二月九日敬法門院百ヶ日逮夜法会が清浄華院にて行なわれる。『通兄公記』(第三 p.50 史料纂集)
1732享保十七年九月敬法門院御送葬につき、火元などに気をつけるよう町触(口触)が出る。『京都町触集成』享保17年 五三九
1732享保十七年九月十一日浄華院にて御法事(敬法門院送葬カ)御普請御入用の諸品、入札が行われる旨の町触がある。『京都町触集成』享保17年五三四・五三五
1732享保十七年九月二十日夜、敬法門院が清浄華院に奉葬される。『通兄公記』(第三 p.30 史料纂集)
1733享保十八年九月廿六日、四十九世秋白上人厳譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1734享保十九年本堂再建の資金確保のため出開帳の計画が始まる。当初は卯年(享保二十年)の常行院常行念仏四万日回向の際に方丈にて泣不動等霊宝を開帳、数年の内に江戸・大坂と三ヶ国にて開帳の計画もあったが、役者や元祖講中などとの相談により、辰年(同二十一年、四月改元、元文元年)江戸回向院にて開帳の運びとなる。のちに粟生野光明寺と辰年開帳が重なる事が分かり、巳年(元文二年)の開帳と決まる。「元文二江戸開帳日鑑」
1735享保二十年三月十四日、敬法門院旧殿を拝領、本堂を建て直す。これを御影堂という。『京都坊目誌』浄土宗寺院調書(『浄全』20)
1735享保二十年敬法門院旧殿(東山天皇御母御殿)を拝領し、敬法門院の尊牌を奉安す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1736元文元年四月から六月まで西山光明寺が本堂再建(前年正月十八日焼失)のため、江戸本所回向院にて開帳を行なう。(翌年三月~四月に京都光明寺にても開帳を行なう。)「元文二江戸開帳日鑑」
1737元文二年三月八日、江戸出開帳のため行列を仕立てて京都を出発する。「元文二江戸開帳日鑑」
1737元文二年三月二十日には品川願行寺へ着き、翌二十一日、行列を組んで芝増上寺へ入る。「元文二江戸開帳日鑑」
1737元文二年四月一日江戸回向院にて開帳開始。「元文二江戸開帳日鑑」
1737元文二年五月阿州侯の息女歓心院殿を葬り、阿州侯当山に帰依せらる始めとなる。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1737元文二年六月十一日閉帳。「元文二江戸開帳日鑑」
1737元文二年六月十四日、将軍へ霊宝を上覧するための使者が来、長持にて霊宝を持ち出す。「元文二江戸開帳日鑑」
1737元文二年八月十一日、江戸より帰路に着く。同日鎌倉光明寺に寄る。「元文二江戸開帳日鑑」
1737元文二年八月十六・十七日と駿府宝台院で開帳。「元文二江戸開帳日鑑」
1737元文二年八月二十五日、蹴上より行列を組み帰洛。「元文二江戸開帳日鑑」
1738元文三年十一月二十四日、五十世顕照上人浄譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1742寛保二年三月、五十一世貞浚上人誓譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1742寛保二年九月十二日清浄華院にて、泣不動尊画像ならびに万里小路家所在の什物が開帳され、この日万里小路家に返還される。「衆人之処、参詣成群」とあり開帳は盛況であった。通兄は晩になって「葉室前亞相(頼要?)」とともに返還後の万里小路家に出かけ、什物を見物、「各殊勝之霊物也」云々。『通兄公記』(第六 p.134 史料纂集)
1743寛保三年歓心院旧跡(岡崎別所?物集女村?)の聖聚院にかかわる「離清尼かた證文」が記される。23-①-09
1745延享二年阿州侯、威峻院殿佛供養料として永代米二十石寄付す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1745延享二年浄華院にて開通上人による説経が行なわれる。「延享二年四月十五日より、師京都浄花院主の請によりて、講筵をかの寺にひらかれけり」『関通上人行状記』
1746延享三年四月五十二世良義上人商譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1746延享三年敬法門院御祠堂金についての書状が京極宮より届く。23-①-14
1746延享三年十二月、京極宮家より敬法門院の祠堂財金五十両を寄付す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1746延享三年四月十日浄華院住職門□和尚、大厳寺住職・大厳寺良義和尚とともに台命を蒙る。『増上寺日鑑』日鑑六(『岩槻市史』Ⅱ‐下 p.718)
1747延享四年九月十一日。徳川家重より朱印状を与えられる。朱印状
18世紀後半年月不明開通が「三部仮名鈔可俚語」を著す。続浄土宗全書八
1753宝暦三年十一月、五十三世碩厳上人法譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1755宝暦五年末寺大阪光正寺の「光正寺来由記録」が記される。23-②-2-22
1757宝暦七年二月(寺々本尊開帳の節、霊元院様以後御代々はもちろん女院御所、女御御方よりの寄附物を拝観させる事を差し止める旨の触れが出る。ただし、日常希望者への拝観は苦しからず、他国より来る開帳に関しても同じ。)『京都町触集成』宝暦7年 一八六二
1759宝暦九年表通りの総築地筋塀が霊元天皇皇子京極宮民部卿親王(後桂光院家仁)によって御母敬法門院御菩提の為に寄付される。「清浄華院誌要」(『浄全』20)●
1762宝暦十二年八月十一日。徳川家治より朱印状を与えられる。朱印状
1763宝暦十三年正月二十四日京都所司代阿部伊予守、京都御巡見(案内小林阿波守)、寄る社寺へ諸事入念に心得違いなきように触れがある。宝物なども「先格」(去丑年)のように手間取らないように書付を先々に附き添いの「御奉行」にご覧にいれる事なども触れらる。『京都町触集成』宝暦13年 一八四
1765明和二年正月二十三日、五十四世知覚上人蓮譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1765明和二年三月朔日、江戸城へ継目御礼、七日に柳之間にて暇乞、服四肩を拝領す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1767明和四年金龍山正福院より慈覚大師御筆「紺紙金泥華厳経」が寄附される。「紺紙金泥華厳経附属状」(17-①-09)
1769明和六年筋築地塀を寄進した後桂光院(京極宮第8代家仁親王カ)の尊牌を安置する事になり白銀十枚の寄附をうける。「後桂光院様御祠堂財書付」23-①-16「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1767明和四年賀茂真淵が「三部仮名鈔言釈」を著す。『続浄土宗全書』八・『賀茂真淵全集』12
1775安永四年京都澤田吉左衛門等より「三部仮名鈔言釈」が出版される。前年清浄華院敬阿が識語を記す。安永四年『三部仮名鈔言釈』
1781天明元年五月八日、仰譽上人江戸城へ召され、住職を仰せ付けられる。七月二十八日、八月三日など登城し、各所で継目御礼や御祝拝領などがあり、八月二十日江戸より上京。(「仰譽上人御転曻記」の記事参照か)「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1781天明元年六月、五十五世聖道大僧正仰譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1781天明元年八月四日、仰譽上人御入寺、例格によって松林院へ入り、本殿大師、弥陀堂、不動堂と廻り、大方丈へ入り山内の礼拝をうけた。(「仰譽上人御転曻記」の記事参照か)「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1781天明元年「仰譽上人御転曻記」が記される。23-②-1-04
1787天明七年向阿上人絵詞傳刊行。『浄書』17
1788天明八年天明の大火。正月晦日、大火により一山類焼。『京都坊目誌』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1788天明八年九月十一日。徳川家斉より朱印状を与えられる。朱印状
1788天明八年同年焼失した塔頭勢至院について、旧来の建物の図面が奉行所に提出される。17-①-36
1788天明八年天明の大火により阿弥陀堂焼失。(後、恭禮門院の旧殿を賜り仮殿とする。)『京都坊目誌』浄土宗寺院調書(『浄全』20)
1789寛政元年庫裏玄関などの再建願いが出される。17-②-09・12「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1789寛政元年九月二十二日、桃園天皇御母后、開明門院を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1789寛政元年十一月、三部仮字抄諺註の版木を購入する。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1789寛政元年十月五日開明門院御送葬と中陰の法要のため浄華院仏具・荘厳具類新調、望む者は入札するように触れが出る。『京都町触集成』寛政元年 一五三
1793寛政四年六月、五十六世知音上人忍譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1795寛政七年天明八年に焼失の高麗門再建の願いが出される。17-②-11
1795寛政七年五十六世忍譽に「役衣飛金免許證」が付与される。23-①-12
1795寛政七年二月、高麗門、門番所、物置を建築す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1798寛政十年天明の大火で焼失した塔頭無量寿院より再建仮屋増築の願いが提出される。17-⑧-04
1799寛政十一年天明の大火で焼失した塔頭栄寿院より再建仮屋増築の願いが提出される。17-①-38
1802享和二年九月、恭禮門院の旧殿を拝領して阿弥陀堂(仮殿)を建つ。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1803享和三年天明の大火で焼失した塔頭に関して、普請願い提出の年を列挙し、それが澄んだ旨の届けを提出する。17-⑧-05
1806文化三年敬法門院旧殿の内、東山院御幸の御殿を拝領しての本堂再建の願いを提出する。17-⑥-08●
1808文化五年忍譽より末寺石州銀山極楽寺和尚へ「銀山極楽寺金入袈裟御免■」が記される。23-①-08
1808文化五年末寺の石州極楽寺と長福寺の金襴衣御免についてやり取りがあり、由緒書などが提出される。23-②-1-18-1
1810文化七年清浄華院知音が万里小路大夫殿御雑掌中へ「御所へ御寄附金願書案」を提出する。天明の大火以後仮殿に尊牌が安置されており心苦しく、翌年の法然遠忌に併せて諸堂を再建したい旨、寛文十一年の先例をもって御所へ寄附を願う。23-①-05「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1811文化八年二月二十五日、禁裏御所、仙洞御所、中宮御所、東宮御所より再建資金を賜い、これに末寺信徒の寄付金を合わせて先規の如く本堂を再建する。『京都坊目誌』23-①-07浄土宗寺院調書(『浄全』20)
1811文化八年縁山嶺譽大僧正より祠堂財五百両を寄付せらる。
1811文化八年十一月、五十七世貞道上人契譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1812文化九年正月、縁山役者より祠堂財として五百両を受ける。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1812文化九年塔頭勢至院本坊に合併す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1812文化九年『往生要略抄』が刊行される。
1812文化九年末寺西光寺が敬法門院祠堂銀を拝借し証文を出す。17-④-02
1813文化十年寛政七年に御許容のあった物置二ヶ所が不便であるので、方丈座敷西へ移転し二階建てとする旨の願いが出される。17-②-10「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1816文化十三年五月十六日、五十六世徳定上人昭譽上人、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1816文化十三年五月、阿州侯より歓心院菩提の為紫紗綾幕二張りの寄付を受ける。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1819文政二年正月六日、光格天皇皇子尊勝光院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1819文政二年末寺大坂光正寺の「大坂光正寺規約控」が記される。尼寺は導師がましきことをしないようにとの規定。23-②-1-09「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1820文政三年天明八年に焼失した塔頭無量寿院の仮建物が手狭なため増築願いが出される。17-⑨-02
1823文政六年向阿上人名号・肖像版木が製作される。向阿上人名号・肖像版木銘
1824文政七年三月十六日、五十九世龍応上人観譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1825文政八年文政四年に寮が焼失した末寺西光院の普請願いが提出される。17-①-34
1826文政九年八月七日、仁孝天皇皇子、瑞放光院を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1827文政十年五月六日、光格天皇皇女、無上覚院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1827文政十年当院二世聖光坊弁阿(弁長)、大紹正宗国師号を贈られる。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1828文政十六年六月徳島藩が扶持米を出していた人々の台帳「須本京大坂無足以下并御合力共分限帳」が記される。清浄華院へ京升にて米弐十石、塔頭の常行院へ十石が与えられている。「須本京大坂無足以下并御合力共分限帳」『徳島藩職制取調書抜』下  国立史料館 東京大学出版会 1984
1829文政十二年天明八年に焼失した塔頭勢至院の再建願いが出される。17-①-10
1832天保三年塔頭栄寿院の仮建物が手狭のため取り壊し再建したい旨願いを提出する。17-⑩-04
1833天保四年正月廿九日、六十世舜了上人澤譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1833天保四年十二月四日、仁孝天皇皇子明鏡心院宮葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1835天保六年大破した塔頭寿徳院の表門修復の願いが出される。17-①-28
1836天保七年十月二十八日、仁孝天皇皇子、眞正珠院葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1837天保八年荷香庵版『三部仮名抄』刊行荷香庵版『三部仮名抄』
1838天保九年四月に十二日に常楽光院(仁孝天皇第二皇女)がみまかり、葬禮が行なわれ、「常楽光院尊儀従御葬送御百ヶ日迄御日次記」が記される。23-②-1-17『京都坊目誌』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1839天保十年九月十一日。徳川家慶より朱印状を与えられる。朱印状
1839天保十年十月晦日、光格天皇皇女、紫金身院宮葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1839天保十年大津今然寺が修復のため明鏡門院御供養料(祠堂料)を拝借する。17-①-04
1842天保十三年塔頭の高雲院が無住のため大破し、取り払う願いが出される。17-⑩-05
1842天保十三年塔頭の高雲院・寿徳院が取り払われる。17-⑥-05
1846弘化三年天明大火以降仮建物だった阿弥陀堂と不動堂が大破しているので取り払い、天保十三年に取り払った塔頭の場所に移転、鎮守を移転する旨願いを出す。17-⑥-05
1846弘化三年天明の大火で焼け残った土蔵が大破したので再建願い。17-⑥-13
1846弘化三年三月二十二日「両御場所御焼香御行列之控」が記される。仁孝天皇(一月二十六日没)百箇日法要と光格天皇七回忌法要の行列順図か。23-①-11
1846弘化三年二月二十五日万里小路正房、唯心院十三回忌法要のため清浄華院松林院霊前にて灯香をささげ、墓所へ参る。法要は巳の刻より僧侶は五口。『萬里小路日記』二p.34
1846弘化三年三月十九日万里小路正房参内。「新大納言」より東京極院の年回忌について、他の中陰・触穢中に年回忌法要をした例があるのかを問われ、退出して開明門院の法要をした事がある浄華院を召し寄せて吟味する。いろいろ調べたところ東京極院(勧修寺婧子)三回忌は昨年済んでおり、浄華院の返答の次第などを再び参内して「当番新宰相」に返答。『萬里小路日記』二p.47
1846弘化三年七月三日万里小路正房、盆供養に清浄華院の廟に参る。博房・留姫・元姫なども参詣。盆供如例。『萬里小路日記』三p.70
1847弘化四年前年許容があった阿弥陀堂と不動堂の再建普請に関して変更がある旨願いを出す。17-⑥-04
1847弘化四年賜金あって阿弥陀堂を再建する。現在の堂宇これなり。『京都坊目誌』
1847弘化四年奉行所より御尋があり、阿弥陀堂再建の際に用いる獅子口や狐格子などの由緒について返答する。17-⑥-12
1847弘化四年塔頭龍泉院が文化十五年許容のあった土蔵を取り壊す旨願いを提出する。17-⑩-02
1847弘化四年九月六日万里小路博房、松林院にて亡父正房一周忌を繰上げで行う。「御神事中」のため自身は参らず。『萬里小路日記』p.123
1848弘化五年阿弥陀堂と不動堂の再建普請に関して大工方より屋根寸法の図面が提出される。17-⑥-06
1848弘化五年五月、阿弥陀堂、不動堂建つ。(不動堂は浪切不動安置)「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1848弘化五年九月十四日万里小路博房、松林院にて亡父正房三周忌を行う。「御法会如例」。来る十八日は芳顔院(聴丸?)の百箇日であるため、同時に供養する。『萬里小路日記』p.194
1848弘化五年七月四日万里小路博房、例年の如く先祖代々の御廟へ詣でる。『萬里小路日記』p.184
1848弘化五年六月十日万里小路博房息聴丸、浄華院に葬送される。戌の刻には無事改めが済む。『萬里小路日記』p.182
1848弘化五年六月七日万里小路博房息、聴丸卒。『萬里小路日記』p.180
1849嘉永二年三月、光格天皇尊儀、光仁天皇尊儀御菩提の為に、蓮観院殿より御華蔓など、禎祥院殿並びに三条殿奥方より御茵(しとね)などが寄付せられる。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1849嘉永二年阿弥陀堂不動堂の増築について願いを提出する。17-⑥-11
1850嘉永三年前年に許容があった阿弥陀堂不動堂の増築が出来たので届け出る。17-⑥-03
1850嘉永三年「当山起立略縁起」「当院起立由来心得要中抜書」が記される。23-②-1-05・06
1851嘉永四年一月十九日にみまかった妙光華院(孝明天皇第一皇子)の葬儀が行なわれ、「妙光華院様御新葬御百ヶ日留書」等が記される。23-②-2-23-1「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1852嘉永五年九月二十四日、六十一世賢従上人延譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1852嘉永五年九月十四日得解脱院殿七回忌の法会が松林院にて行われ、万里小路博房は三回忌と同様に御詣。また、「御墓今日御徳日也」とある。『萬里小路日記』p.316
1852嘉永五年正月十日禁中諸礼。万里小路博房も参加。松林院が参台するので、「非蔵人隠岐」に世話を頼む。(この日松林院は足袋を忘れ、博房は「聊不都合、自后可心付事也」としており、相当高齢であったか。)『萬里小路日記』p.280
1853嘉永六年五月二十三日万里小路博房息季丸、所労の所、養生の甲斐なく死去。『萬里小路日記』p.357
1853嘉永六年五月二十四日万里小路博房息季丸、今暁松林院へ養生退出(?)翌二十五日に「凉光院(季丸カ)今夜葬送畢」とある。『萬里小路日記』p.358
1855安政二年徳川家定により朱印状を与えられる。朱印状
1856安政三年二月廿七日、六十二世貞也上人元譽、台命住職勅請晋董す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1860万延元年「文化八年正月御寄附 覚」の草案が記される。寛文十二年と文化八年に禁裏や仙洞御所などから受けた寄進の覚え。23-①-07
1860万延元年徳川家茂により朱印状を与えられる。朱印状
1860万延元年十月、万里小路左少辨の傳奏にて宗祖六百五十年遠忌に付き、御寄付金を上願す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1862文久二年八月十日、孝明天皇皇女実相心院宮を葬す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1863文久三年八月一日熊本藩士旅寓中。『鞅掌録』二(広沢安任著『会津藩庁記録』三 日本史籍協会編 p.500)
1870明治三年九月に貞也上人寂、明治七年まで無住となる。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1874明治七年十一月、六十三世祥眞上人徴譽、教部省より住職に補任され、中教正に叙される。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1876明治九年泉山(泉涌寺)に尊牌が遷座される。遷座の尊牌名を列挙した目録「尊牌等遷座通知(仮)」が記される。23-②-1-10
1876明治九年以来傳燈付法の道場たる。浄土宗寺院調書(『浄全』20)
1878明治十一年九月十九日、泉山(泉涌寺)へ合併された尊像尊牌の御返遷を上願する。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1878明治十一年十月十九日、尊牌返遷の願書、特別の詮議をもって聞き届けられ、尊牌が戻り、尊牌保護料が下賜される。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1878明治十一年泉山(泉涌寺)から尊牌が奉遷され、法要が開かれる。宮内省より尊牌保護料が下される。23-①-01・23-②-1-01・23-②-2-25浄土宗寺院調書(『浄全』20)
1878明治十一年「宝物寄附物什物取調帳」が記される。23-②-1-13
1878明治十一年九月、塔頭戒光院を越中新川郡生地村へ移し、常行院・栄寿院は本坊へ合併。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1879明治十二年宮内省より清浄華院へ、当年より尊牌保護料として毎年100円下賜する旨書状「永世下賜金之証」が下される。23-①-02浄土宗寺院調書(『浄全』20)
1879明治十二年「記」(「内務省へ当山御世代書上控」)が記される。23-②-1-12
1880明治十三年一月、清和天皇一千年祭を奉修す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1880明治十三年十二月、徴譽上人寂。翌年一月、清浄華院無住に付き、住職が決まるまで成願寺本郷寛明兼務とされる。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1881明治十四年五月、六十四世貫務上人安譽、内務省より住職を命じられる。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1881明治十四年「地券証」明治十四年第七号が発行される。23-②-2-26-2
1881明治十四年「地券証」明治十四年第六号が発行される。23-②-2-26-4
1881明治十四年「地券証」明治十四年第四号が発行される。23-②-2-26-5
1882明治十五年十月、堂宇営繕費として百円の下賜がある。浄土宗寺院調書(『浄全』20)「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1883明治十六年一月、ご一新の際禁止された菊章が、双葉添え付け菊華章として使用を公認される。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1883明治十六年「地券証」明治十六年第九号が発行される。23-②-2-26-6
1883明治十六年末寺専福寺を越中新川郡新川村へ移す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1886明治十九年「地券証」第十一号明治十九年が発行される。23-②-2-26-3
1889明治二十二年一月二十一日、自火により本堂を失う。京都坊目誌「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1889明治二十二年四月十三日、堂宇悉く焼失す。阿弥陀堂・不動堂・地蔵堂・表門・裏門・井戸屋形門番所を除く堂宇を焼失。浄土宗寺院調書(『浄全』20)「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1889明治二十二年四月の火災では御尊牌は無事に遷座でき、五月、皇室より勅使をもって黄金二百円下賜、是より先、等熈上人・三休上人に下賜された紫袍を代々住職の晋山、参内の際にその都度勅許宣旨を賜る。浄土宗寺院調書(『浄全』20)「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1891明治二十四年再建を上願、宮内省より三百円、内務省より二百円を下さる。まず大方丈(仮御影堂)、小方丈、仮庫裏湯殿を再建、大師廟堂(厨子か?)は信徒服部伊兵衛妻某の寄付に依る。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1892明治二十五年九月、六十六世良祐上人民譽、入山。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1893明治二十六年十月、大書院、小書院、仮庫裏などを建立。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1895明治二十八年第四回内国勧業博覧会に、泣不動図・同縁起・釈迦三尊・空也上人ノ叩金を出展する。23-②-1-21
1898明治三十一年知恩院の財政整理に活躍した辨承上人念譽が六十八世として入山。寺門興隆と御影堂再建に尽くす。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1900明治三十三年九月、御影堂再建資勧財の許可を得て法主自ら諸国へ布教す。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1900明治三十三年十二月、天皇皇后両陛下より御影堂再建費御補助として三百円を賜う。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1902明治三十五年浄土宗宗務所より千円の寄付を受ける。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1906明治三十九年年末、御影堂再建の寄付額が目標七万円に達する。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1906明治三十九年日露戦争戦死者供養の法要が行なわれる。23-①-04
1907明治四十年一月、宮内省に御影堂再建並びに木曽御料林用材払い下げを上願、許可を得、七月廿七日起工式を行う。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1908明治四十一年御影堂再建進む。八月廿七日立柱式、十月棟上式。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1910明治四十三年十二月、天皇皇后両陛下より修理費として五百円、皇后陛下よりさらに特志五十円を賜う。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1911明治四十四年本堂再建。『京都坊目誌』
1911明治四十四年二月、御影堂竣工。同二十五日遷座慶讃式を行う。「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1911明治四十四年四月宗祖七百年遠忌執行。『京都坊目誌』「清浄華院誌要」(『浄全』20)
1916大正五年「諸尊霊年度」が記される。「諸尊霊年度」

※清浄華院史料編纂室制作による。
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