法然上人をお祀りする 大殿(御影堂)
清浄華院の本堂とも言えるお堂です。境内で一番大きな建物なので「大殿」、法然上人の御影(みえい)をお祀りしているので御影堂とも呼ばれています。内陣中央に祀られている法然上人像は、上人が後白河法皇より当院を賜った42歳の時のお姿を自ら刻まれたものと伝えられています。上人の肖像はお年を召した頃のものが多いのですが、当院の上人像は壮年期のお姿ということで、若々しい精悍なお顔立ちをしておられます。42歳は男の本厄ですので江戸時代には「厄除圓光大師」としても厚い信仰を受けていました。
江戸時代には西向きの建物でした。度重なる大火に何度も類焼していますが、そのたびに御所の建物の下賜を受けて再建しています。現在の建物は明治22年の火災焼失後に再建されたもので、明治42年に竣工、明治44年(法然上人700年大遠忌)に落慶したもの。この際に南向きとなりました。
当院の皇室帰依の由緒を反映して、皇室御用の木曾御用林の木材を使用して建てられています。内陣の東壇には尊牌壇があり、ゆかりある天皇・皇族の方々のお位牌を安置しています。また建物西側には勅使や皇族の方々をお迎えするための玄関が付属しています。建物の各所には皇室ゆかりの菊花紋があしらわれ、皇室ゆかりの寺院としての格式を残しています。
西壇には当院の霊験本尊「泣不動尊」がお祀りされています。自ら身替わりとなり師匠の命を助けようとした弟子を、感動の涙を流して救ったという不動尊の絵像で、本来秘仏でした。平成26年のご開帳法要を受け、現在は常時開帳しており親しくお参りする事ができます。
左右には金比羅権現・秋葉権現・陀枳尼天・弁財天の四神像が祀られています。金比羅権現・秋葉権現は江戸時代後期(文政年間)の造立ながら非常に力強く整ったお姿をしています。この二体は天命の大火後の文政期に不動講が寄進した物で火事除けの神として祀られたものと考えられています。陀枳尼天像はおそらく松林院の鎮守社・稲荷社の神体だったと見られ、弁財天も由緒不詳ながら芸能・学芸・商売の神として知られています。この四神はもともと旧不動堂の安置仏であったもので、元の配置を再現したものとなりました。お前立ちとして不動三尊像もお祀りされています。
法然上人の霊廟 御廟
境内東の墓域にあるお堂で、法然上人をお祀りする石塔を納めています。石塔は無縫塔と呼ばれる形式のもので、厨子の中に納められて安置されています。
法然上人の廟所といえば、知恩院の御廟がよく知られていますが、京都の浄土宗四箇本山にはみな法然上人の御廟が存在しています。清浄華院の御廟の存在は江戸時代以降からしか確認できませんが、室町時代に記された宝物目録には、法然上人の遺骨の存在がすでに記されています。清浄華院でもいつの頃からか御分骨をお祀りしてきたようです。
御忌などの大きな法要の際や毎月25日には扉が開けられ、礼拝することになっています。
法然上人の遺骨を納める法然上人御骨塔
大殿前の五輪塔には法然上人のご遺骨を納められています。平成30年、境内参道石畳の改修工事に伴い大方丈前にあった五輪塔を解体した所、その中より「浄華院開山元祖法然源空上人御骨」と記された2枚の木札と共に、木箱に納められた人骨や焼き物の仏像、銅製容器などが発見されました。この石塔は平成22年に大殿前から移転したものでしたが、その時は内容物には気付かなかったようです。
2枚の木札の記述によると、この御骨は元禄二年(1689)本山第四十五世天譽雲龍上人が奉納し、その後、昭和8年に第七十二世岩井智海上人が「阿弥陀直背面」にあった石塔を移転したときに御骨を発見、御骨は再度石塔に納めた、とあります。
上記の通り清浄華院には室町時代より伝わる法然上人のご遺骨と御廟が存在しており、元禄二年に御骨を奉納したという雲龍上人も本山に伝わるご遺骨とは別の存在、と区別してお祀りをしたものと思われます。
再発見を記念して勧進を行い、多数の篤志者による寄進をもって石塔を大殿前に移転、参拝しやすいように整備させていただきました。平成31年4月21日に法然上人御忌大会に際し開眼法要を行い、新しき令和の年を迎えました。
貴族たちが帰依した阿弥陀堂(旧松林院)
阿弥陀如来を安置するお堂。現在のつきかげ苑の位置に南向きにありましたが、平成になって取り壊したため、塔頭・松林院の本堂を改築して阿弥陀堂としています。旧阿弥陀堂は称光天皇再建の勅願所と伝え、取り壊された建物も恭礼門院(後桃園天皇生母)の御殿を拝領して再建されたものでした。
現在のご本尊の阿弥陀如来坐像は松林院のご本尊だったものがそのままお祀りされています。平安時代風の優美なお像です。松林院は後伏見天皇の皇孫で当院八世となった敬法上人が創建した由緒ある塔頭で、江戸時代は勅願所として別院の扱いを受けていました。皇族やお公家さんの檀家が多く、桃園天皇御母の開明門院の御尊牌や、万里小路家、山科家、姉小路家など諸家のお位牌を現在も安置しています。
幕末には会津藩主で京都守護職を務めた松平容保公が半年ほど逗留しています。文久3年(1863)八月十八日の政変以後、孝明天皇に御所近くにいるように命じられた容保公は、文久3年12月から翌年5月まで松林院に逗留しました。この間に新選組の近藤勇らが容保公に呼び出されたという記録もありますので、新選組の隊士らも清浄華院の門を潜ったことがあったようです。 会津藩はその後も慶応三年四月頃まで清浄華院に寄宿します。御所に近いため上級藩士が詰め、その中には同志社の創立者・新島襄の妻でハンサムウーマンとして有名な新島八重の兄、山本覚馬などもいました。
現存する阿弥陀堂の建物(旧松林院本堂)は大正天皇御大典の際に二条城に建てられた饗応所(大廊下)を宮内省より下賜され、その部材を使って建てられています。 松林院は平成15年に清浄華院に統合され名跡を失ってしまいましたが、平成25年に「松林院旧跡碑」が浄山学寮門前(旧松林院脇門)に建立され、その由緒を留めています。
現在、阿弥陀堂は佛教大学の浄山学寮(宗門後継者養成道場)の教室としても使われており、若い僧侶たちが修学に勤しんでいます。 ※浄山学寮授業のため拝観できないことがあります。
平安時代の阿弥陀さん 大方丈
方丈とは住職の居宅空間を指す言葉ですが、後に仏堂を意味するようにもなりました。清浄華院の大方丈も比較的内向きの法要を行うお堂で、阿弥陀三尊像を本尊として安置しています。
この阿弥陀三尊像は'阿弥陀堂の元本尊であり、中尊の阿弥陀如来坐像は恵心僧都源信の作と伝えられています。定朝様を受け入れつつも奥行きのが深い古様を残しており、平安時代後期11世紀頃の作と考えられています。
両脇侍の観音菩薩・勢至菩薩像は、「大和座り」と呼ばれる珍しい座り方をしています。正座のように足を曲げる様子は、われわれ衆生をお迎えに来てくれている様子を表しています。大方丈では、京都 流芳会さんよるお茶のお稽古なども行われています。
浄土の庭を臨む 小方丈
仏殿となっている大方丈に対して小方丈は生活空間になっており、近年まで寺務所もここにありました。本棟の他、時々に増築された団体詰め所、応接間、浴場、職員宿舎なども連結しています。
本棟は式台付きの玄関を設け、六間の座敷を具える木造建築で、座敷からは京都庭園室・小埜雅章氏の作庭になる『光明徧照の庭』を臨むことができます。青い苔の中に阿弥陀如来や聖衆の菩薩、その光明をあらわす石などが配され、"浄土の庭"、とも呼ばれています。
中庭には昭和九年に建立された茶室「清華亭」もあります。
向阿上人を祀る 是心堂(寺務所)
法然上人800年大遠忌にあわせた、当院第五世向阿是心上人の顕彰事業の一環として建立されました。
向阿上人は、浄土宗第三祖・然阿良忠上人を京都にお迎えし、京都における浄土宗の進展に大きな貢献をされた礼阿然空上人の弟子です。法然上人滅後100年を経て教義が乱立する中で、自らが正脈と自認した向阿上人は、貴顕に檀越を得て広く教えを広められ、浄土宗の発展に大きな役割を果たしました。
学僧として著作も多く残され、中でも『三部仮名抄』は仮名混じりの易しい文章で浄土宗の奥義を分かりやすくまとめており、文学としての評価も非常に高いものとなっています。
清浄華院の第五世としても、亀山天皇皇子・恒明親王に帰依を得て寺領や境内地の寄進を受けるなど活躍されています。
2階の仏間には勢至菩薩坐像を中心に、向阿上人とその師匠の礼阿上人、室町時代に当院の一大隆盛期を築いた中興第10代法主 等凞上人のお像がお祀りされています。
勢至菩薩像はもともと勢至堂(現存せず)の本尊であったお像で、近年の研究で知恩院の勢至菩薩像(重要文化財)の摸刻であるとの説が出ており、背中の天衣をX字形に交差させる珍しい着用法をしています。勢至菩薩は他宗では独尊として祀られる事はほぼありませんが、浄土宗では法然上人は勢至菩薩の化身であるという信仰があり特別に祀られる事がある事が知られています。
泣不動ゆかりの不動堂
清浄華院には江戸時代から不動堂がありました。宝永5年(1708)に泣不動尊像の開帳が行われたのち、清浄華院の不動信仰は非常に盛り上がったようで、享保年間に到ってその拠点として建てられたのがこのお堂であったようです。
泣不動尊像は絵像であり秘仏となっていましたので、江戸時代は波除不動の伝承を持つ平安時代作の不動明王立像を不動堂の本尊としてお祀りしていたようです。毎月不動講による百万遍念仏による供養が行われていました。なお、波除不動尊像は、現在は秘仏となっています。
現在の不動堂は平成23年の大遠忌にあわせ、総門北脇殿を転用して再建されたものです。本尊は再建にあたり新造された半丈六不動明王坐像。御本体は仏師で僧侶の信行堂・菱田信行師によって制作されました。体内にはご結縁を頂いた沢山の方々のご芳名が納められています。
見るものを圧倒する二メートル近い坐像のお姿は、現在の清浄華院の不動信仰を象徴するお像として信仰を集めるようになり、当初なかった光背も平成28年2月に篤信者の寄進によって追造することができました。
脇壇には石薬師尊と安倍晴明公像もお祀りされています。石薬師尊は江戸時代の初期に当院北にあった真如堂(真正極楽寺)に祀られていた石薬師に因んで、付近に所在した石薬師町という町内で祀っていた石造の薬師如来立像です。明治時代に町域が京都御苑に取り込まれ石薬師町が消滅する事になったため本山に寄進されました。(以来地蔵堂に安置されていましたが、近年不動堂に移転しました。)病気平癒、特に眼病、耳鼻口の病にご利益があるとされており、かつては貫通した穴がある石を供えて祈願する習慣がありました。
晴明公は「泣不動縁起」に登場する事から、不動尊の傍らにお祀りされています。衣冠姿で巻紙状の祭文を読むという絵巻そのままのお姿です。
安産・子育てのお地蔵さん地蔵堂
近年まで現在の不動堂の前あたりに地蔵堂がありましたが、つきかげ苑建設に伴い取り壊されてしまったため、平成23年に総門南脇殿を改築して地蔵堂として再建しました。
江戸時代は境内南西角に地蔵院という塔頭があり、地蔵堂本尊の地蔵菩薩立像はそこに祀られていました。「染殿地蔵」の名で親しまれ、子授け・安産・子育ての信仰を集め、江戸時代の記録には地蔵盆の際に町人が群集した、とあり、また由緒書などの版木も残っており、厚く信仰されていたようです。堂内には閻魔王坐像や平成28年9月に中国泰山より勧請した泰山府君坐像も祀られています。
染殿地蔵尊には公家衆も信仰を寄せ、地元の方の伝承によると孝明天皇典侍・中山慶子(よしこ)さまはこの地蔵菩薩に足繁く参詣され、そのご利益にて明治天皇を授かったと伝わっています。
“染殿地蔵” の名は本山の開基・清和天皇の母君で現在の境内地付近に御殿を営んでいた染殿皇后との関わりを窺わせますが、よく分かっていません。
骨仏さんの納骨堂
昭和九年に建立されたお堂で、現在のご本尊は昭和六十二年に3,000体に達した納骨を元に彫刻家・今村輝久氏の手によって造立された骨仏です。関係寺院の檀信徒の皆様、あるいはご紹介の方々のご納骨を受け付けております。
法然上人のいらっしゃる大殿に一番近いお堂であり、毎日お念仏の声が聞こえる場所でもあります。故人のご回向の場としては、この上ない場所と申せましょう。
納骨堂へは大殿から渡り廊下で結ばれており、いつでもお参りしていただけます。10月には納骨された方々へのご回向をさせていただく骨仏法要も行われています。
創建以来の守護神 山王権現社
清浄華院の鎮守・山王権現を祀っています。寺伝によれば清浄華院創建時に慈覚大師円仁が勧請したと伝えています。山王権現は比叡山・天台宗の守護神として知られており、慈覚大師の創建を伝える清浄華院に祀られるにふさわしい神といえましょう。
江戸時代には季節毎に祭りがあり、特に四月の山王神事、十一月の御火焚祭が一山総出仕のもと盛大に行われていましたが、近代になって廃れてしまい、国家神道の影響下でいつの頃からか祭神も「天照皇太神」「豊受大神」「御霊大神」(伊勢両宮と地域の産土神)に変更されてしまいました。近年は小方丈中庭にひっそりと祀られていましたが、平成23年の法然上人800年大遠忌に際し再興の気運が盛り上がり、ご祭神が日吉大社より改めてご勧請され移転・修復されました。祭礼も復興され、毎年11月28日に御火焚祭が催行されています。
また、神使がサルであるため、魔を去る(サル)として厄除けの信仰があります。
小さな鎮守さま 浄花稲荷社
清浄華院の総鎮守は山王権現ですが、江戸時代中頃から稲荷社も祀られていました。祀られた経緯は分かっていませんが、宝暦頃の日記に筆頭塔頭・松林院の鎮守稲荷社の神体像を修復したという記事があり、この松林院の鎮守社が清浄華院全体の守護神に変わったとも考えられます。
少なくとも明和頃には法主が元日に行う諸堂巡拝の中に出て来ますので、天明の大火以前からお祀りされていた様です。幕末には伏見稲荷から「正一位浄花稲荷大明神」の神号を頂いており、明治時代には末寺の住職に夢告をして祠の荒廃を嘆いたという記録も残っており、霊験あらたかな神様とされています。
山王権現社とともに一度廃されていましたが、平成29年に再興される事になりました。
清浄華院の表玄関 総門
清浄華院の顔ともいえる表門です。高麗門と呼ばれる形式をとり、両脇には番小屋が付属しています。現在番小屋は南北それぞれ地蔵堂、不動堂として改築されています。
天明の大火類焼後、寛政年間に建て替えられたものが現存するようです。ただし門柱に干割れを防ぐための"背割り"が見られ、明治以降の再建の可能性もあります。
清浄華院は明治期に失火で伽藍のほとんどを焼いてしまいましたので、もし江戸時代の建物が残っているのだとすれば、貴重なものといえましょう。
皇室帰依の由緒を伝える 勅使門
朝廷からの使者「勅使」を迎えるための門で、寺伝によれば称光天皇が阿弥陀堂を再建した際に寄進されたのが始まりと伝えています。現在の建物は昭和九年に再建されたもので、唐門様式をとり、扉には菊の紋が入れられています。普段は閉じられており、法主台下(住職)ですら晋山式の時にしか潜ることができません。
江戸時代の清浄華院の法主は、就任すると朝廷より紫衣の勅許が出されましたので、晋山式の際に伝奏(天皇の意を伝える使者)が来山していました。 新法主は晋山式の直前に松林院にて伝奏より紫衣勅許を受け、総門から行列を組み、初めて勅使門を潜りました。晋山式以外では皇族の参詣などにも開られていたようです。
両脇の築地塀には五本の白線が入っていますが、これは桂宮家第8代京極宮家仁親王(後桂光院)による寄付の由緒を伝えたものです。
現在の建物は昭和9年清浄華院76世法主 岩井智海台下の時代に納骨堂や渡廊下などとともに建立されたもので、三林石松施行によるものです。銅板葺の唐破風屋根を乗せた向唐門形式で、格狭間や蛙股などに流線の美しいシャープな植物紋を配する、近代和風建築となっています。
清浄華院最古の建物 東門
河原町通より境内に入るための門です。薬医門という形式で建てられています。この門の梁には延宝4年(1676)の棟札が打ち付けられています。もしこの棟札が転用でなければ、この東門は清浄華院現存最古の建物ということになります。洛中の寺院は火災で度々焼失していますので、300年以上昔の建築物は実は貴重といえます。
東門が設けられたのは宝永五年(1708)に境内東にあった「御土居薮」が下げ与えられ、道を通した時です。この際、宝永の大火で焼け残った勅使門を移転し東門として転用しており、延宝4年の棟札は勅使門時代の棟札であることが分かります。
御土居は豊臣秀吉が造らせた京都を取り囲む土塁です。江戸時代になっても竹などの資材を調達する薮として機能していましたが、京の町が発展していく中で邪魔となり順次取り壊されていきました。
清浄華院に接する御土居薮の土地は取り込まれて墓地となりました。清浄華院にはこれといって痕跡は残っていませんが、お隣の廬山寺さんには土塁の斜面が残っています。
なお、明治期まで清浄華院と廬山寺の間には御土居薮を切って造られた道(廬山寺切通)がありました。境内南東端にある長細いビル(旧関西文理学園の建物)はその道幅を今に伝えています。
四百年前の梵鐘 鐘楼堂
いわゆる「鐘つき堂」です。建物は八百年大遠忌記念事業の一環として平成22年に再建されたものですが、掛かっている梵鐘は江戸時代のはじめ慶長15年(1610)に造られたものです。
銘文によれば大坂堺の阿弥陀寺住職恩蓮社良道和尚の発願により、近衛殿北政所心光院が大施主となって鋳造されたものであるとのことです。全体に結縁者と見られる人名・法名が数多く記されており、中には正親町天皇などの名前も見えています。
寺僧を列挙した部分には、織田信長上洛の動向を伝える文献『道家祖看記』の著者、松林院祖看の名前も刻まれています。現在は毎日朝夕に浄山学寮の学生たちによって撞かれている他、大晦日には一般の方々にも除夜の鐘を撞いていただいております。