泣不動尊と安倍晴明

  • 陰陽師・安倍晴明

 
 本山所蔵の『泣不動縁起』絵巻。本山の宝物の中でも特に有名であり、またメディアなどで取り上げられることの多い文化財です。
 その理由はその文化財的価値もさることながら、なんといっても安倍晴明が登場することによるものでしょう。

 平安時代に活躍した陰陽師・安倍晴明。その不思議に満ちたキャラクターは人々を惹きつけてやみません。特に近年は小説や映画も大ヒット、漫画の登場人物にもなり、一躍有名になりました。

 そもそも陰陽師とは平安時代の官庁「陰陽寮」に所属した官僚のことで、陰陽五行思想に基づき、暦法、方位、地相によって吉兆を見、その対策を具申するという役割を負っていたようです。次第に対策そのものも担うようになり、呪術による災難除けや祈祷なども行うようになっていったとされています。

 安倍晴明はそんな"呪術師"・陰陽師のカリスマ的存在として知られています。その逸話は数知れず、泣不動説話もその一つです。

 
  • もともと安倍晴明のお話しだった泣不動説話

 
 泣不動尊の縁起譚――すなわち泣不動説話は、中世来その主人公ともいえる「泣不動尊像」とともに非常に有名でした。様々な説話集や文学に登場してきますので、多くの書物に記された泣不動説話を比較・検討する研究も盛んに行われています。
 こうした研究によると泣不動説話の最初の形は、実は安倍晴明の験力を語る説話であったとされています。
 『今昔物語』には晴明が、師と病の身代わりを申し出た弟子の命を交換する祈祷を行い、結果師弟共に助かったという話が出ています。これが泣不動説話の原初の形と言われています。しかし晴明は「泰山府君」の哀れみによるものだろうと判じており、不動尊は一切出てきません。

 師弟の名も出てこずあくまで安倍晴明が主人公の話となっている訳ですが、このお話が鎌倉時代頃に実在の僧・証空と、彼が開いた常住院の宝物・不動明王絵像と結び付き、泣不動の説話になっていったというのです。
 初めは主役であった晴明。しかし説話が不動尊の御利益を語る内容に変化していったことで、晴明は脇役になってしまったわけです。

 しかし、泣不動説話を良く見てみると、不動明王はあくまで証空を助けたのであって、師匠の智興を助けたのは紛れもなく晴明であることがわかります。晴明の祈祷により、智興は病を証空に移し命を長らえたのですから。

 説話の筋は泣不動尊の慈悲と利益へ集約していくために、見逃しがちではありますが、晴明の験力が強大である事がお話の前提となっています。「あの晴明ですら免れない死の定め」を不動が救ったという具合に、不動尊の引き立て役になっている、と言う事も出来るでしょう。

  • 泣不動縁起の中の安倍晴明―泰山府君祭

 
 説話の中で晴明は、まず弟子の依頼により智興の病気の行く末を占います。宿業の病であるから治らないという結果が出、悲嘆に暮れる弟子達に対し、晴明は「誰か身代わりとなるものがあれば、生命の挿げ替えをしてやろう」、と言います。これに名乗りを上げたのが、のちに不動尊に助けられる証空でした。

 晴明が「生命の挿げ替え」をどのように行ったのか―――それは「泰山府君祭」の修法を執り行ったとされています。

 泰山府君祭は中世陰陽師が盛んに執り行った儀式で、道教に於ける冥界の主・泰山府君を供養し、寿命延長や除災平安を祈った修法です。説話の中ではさも秘法のように出てきますが、中世の陰陽師にとっては比較的ポピュラーな儀式であったようです。

 泰山府君祭の記録を見てみると「金幣」「銀幣」「銀銭」「白絹」といったものが供物としてあげられています。簡単にいえば冥界の官僚や寿命をつかさどる星々に金銭を含む供物―賄賂を送り、寿命を左右する善悪軽重の記録を書き換えてもらう、というのがこの修法の趣旨です。こういった即物的なところはこの修法が中国道教に由来しているためでしょう。

 現在も密教儀礼として盛んに行われる星供(星まつり)や、仏教的な泰山府君祭ともいえる「炎摩天供」などでも、紙で作った銭をお供えします。両方とも中国道教の影響を色濃く受けたものですが、祭壇には紙製の幡や御幣(蝶幣)が据えられるなど、絵巻に出てくる祭壇とよくにています。 
 儀式の記録には上記の他にも供物として「鞍馬」「勇奴」が挙げられています。
 鎌倉時代に描かれたとされる東京国立博物館本『不動利益縁起』絵巻の該当部分を見ると、祭壇に鞍を乗せた馬や手綱をひく人物を描いた紙が貼り付けられているのが分かります。これが「鞍馬(鞍を乗せた馬)」「勇奴(屈強な奴僕)」に相当するものと考えられます。これは中国道教で現在「紙馬」と呼ばれている、供物を絵にして印刷した紙や、紙で模造品をつくり燃やして神霊に供える習慣とよく似ています。
 いろいろと面白い泰山府君祭ですが、本来は寿命延長を祈る修法であって泣不動説話に出てくるような「命のすげ替え」の法ではありません。この点に矛盾がありますが、冥界の神々に供物を供えて運命を書き換えてもらうこの修法なわけですから、晴明の験力をもってすれば、身代わりを頼むことが可能であると考えられたのでしょう。

  • 泣不動縁起の中の安倍晴明―泣不動尊を拝む安倍晴明

 
 はたして安倍晴明の泰山府君の法により、智興の死の病は証空に移り、証空はその病の苦しみに、日頃拝んでいた不動明王の絵像に助けを求める―。

 物語の主題はここから安倍晴明から離れ、不動明王のお話しになっていきます。晴明は死の運命ばかりは変えられず、身代わりを立てさせたわけですから、以後は舞台から降りてしまいます。

 一方、その後の病を移された証空は、死の定めは逃れられなくても病の苦しみだけは除いて欲しい、せめて臨終の念仏を心安らかに、と不動明王に祈ります。

 不動明王はこの時点で証空の助けに答えて初めて登場してくるのです。智興や証空、晴明の遣り取りの中には不動明王は一切出てこず、すこし唐突な登場である感は否めません。

 ところが、時代が下がるともっと早い時点で不動明王が登場してくる物語が登場します。 室町・戦国時代に成立・流布した『曽我物語』に挿入された泣不動説話「三井寺大師の事」では、安倍晴明が不動尊像を本尊として智興と証空の命を取り替える修法を行っています。
 これ以前の縁起では命替えの本尊は泰山府君になっていますが、ここに来て、晴明が直接不動尊を拝み、命替えの修法を行うという構図になっているのです。

 泣不動の説話は江戸時代になると仮名草子などに引用されるようになりますが、晴明自身が不動尊像を拝むという形をとっています。これには『曽我物語』が大衆文芸の元ネタとして非常に親しまれたため、その影響の下で作られたためと考えられますが、近松門左衛門作の歌舞伎狂言『京わらんべ』や、浅井了意『三井寺物語』、『安倍晴明物語』など、中世説話を直接引用しない江戸時代の泣不動説話では、ほとんどが「晴明が不動尊像を拝む」という形を取っています。 
 泰山府君という特殊な尊格や、証空が病気になってから不動尊が突然登場するという分かり難さを避けるため、こうした物語上の改編が行われたものと考えられます。江戸時代になると文学も大衆化していきますので、わかりやすさが求められた結果なのでしょう。

 もともとの形から変わってしまってはいますが…江戸時代の縁起に注目するならば、泣不動尊は安倍晴明が拝んだ仏画である、と言うことが出来そうです。『京わらんべ』や『三井寺物語』の版本の挿絵では、まさに晴明が不動明王の軸を壇に掛けて祈祷をする様子が描かれています。

 ちなみに、室町中期成立の能曲『泣不動』では、晴明が全く出てこず、証空が自ら不動明王に誓いを立てて、命を取り替えて貰っています。これは、おそらく舞台芸能である能において、登場人物を増やさないための処置であったのでしょう。

 
  • 安倍晴明と不動明王―中世の陰陽師

 
 さて、陰陽師・安倍晴明と不動明王――両者はたまたま「泣不動縁起」において出会ったのではありません。 実は安倍晴明は不動明王を念持仏としていたという伝承があります。

 洛東・神楽岡にある真如堂こと真正極楽寺の御本尊・阿弥陀如来像の右脇に、晴明の念持仏と伝える不動明王が祀られています。
 大永四年(1524)作の『真如堂縁起』によれば、文安年間(1444-1449)に晴明の子孫・安倍有清なる人物が、この不動明王像は晴明の念持仏であるから返して欲しいと訴え出、天皇の勅命で子孫に返されることになりました。封印をして運び出したものの、いつの間にか寺に戻っており、それを知った天皇は今後も寺で祀るように命じたとあります。
 晴明がこの不動明王を念持仏とした由来も伝わっています。ある時晴明は瀕死の状態に陥り、冥府に赴いた事がありました。閻魔王の前まで行くと不動明王が現れ、晴明を助けるように命乞いをしてくれました。それを聞き届けた閻魔王は、人々を横死より救いを約束するという宝印を晴明に授けました。晴明が蘇生すると懐には宝印があり、以後晴明は不動尊を信仰し、宝印を授けて人々を救ったと言います。

 仏教のほとけである不動明王を安倍晴明が拝むのは何か不思議な気がしますが、平安時代は官僚であった陰陽師も、時代が下るにつれて律令体制の影響力の低下にともない、陰陽道の技術の流出が起こり、民間陰陽師とも言える存在の登場を許すようになります。中には僧侶や山伏などが陰陽道的な技術を身につけて活動することもありました。彼らは様々な宗教や民間信仰と陰陽道を習合させていきます。 
 『曽我物語』に登場する晴明は、仏教の不動尊を本尊とし、梵天や帝釈天、四天王を呼び出して祀り、神道の御幣を立て、道教の紙銭や紙馬を用い、数珠を擦って祭文を唱え…と節操がありません。
 しかし、こうした混沌とした祈祷師、というのが中世の陰陽師の一般的なイメージでした。中世には陰陽師と言えば民間祈祷師の一種であり、江戸時代になってもその傾向は続きます。
 江戸時代には公家となった安倍晴明の子孫、土御門家により宮廷陰陽師の命脈はかろうじて保たれ、この家により陰陽師の統率・支配も行われることになります。ところが、実際の所は服装や陰陽師を名乗ることの免許を出すばかりで、他の宗教者と揉めることがなければ用いる技術の内容はあまり問われず、他の宗教と免許を二重取りして活動する者も多かったようです。陰陽師を名乗っていてもその技術が陰陽道のそれで無いことも多かったのでした。

 陰陽師・晴明が不動尊を拝む、この姿は中世や江戸時代の人々にとっては、あまり不思議な様子ではなかったのです。ましてや寿命延長を祈る「泰山府君の法」と不動明王への臨終正念守護の祈りは、同時に行われることも多く近接した関係にあるということも言えます。
 現在のように仏教や神道、その他の宗教、と目に見えて服装や技術が違ってくるのは、神仏分離など宗教行政の改革が行われた明治以降の事になります。
 

  • 清浄華院と陰陽師

 
 平安以降、宮廷で活躍した陰陽師。戦乱の頃には一時拠り所を失いますが、常に皇室や公家の近くに侍っていました。創建以来、公家衆と繋がりの深い清浄華院も、陰陽師との交流をしばしば持っています。余談になりますが、少し紹介しておきましょう。

 永享十二年(1440)正月、清浄華院では万里小路時房の子である喝食(寺に住むが僧になっていない見習いの少年)の玄周に対する授戒会の日取りについて、陰陽師に占いをさせています(『建内記』)。
 その陰陽師とは勘解由小路(賀茂)家の当主・在貞で、彼が語る所によると、南禅寺の馬場の端に小さな社があり、近辺の女にお告げをして霊験あらたかである、とのことで、その社頭にて講問の法要を行ったとあります。おそらく法楽のためかと思われますが、六人の僧が出席した式であったようです。
 その法楽の法要とどう関係があるのか分かりませんが、在貞は二つの日程案を提示、結局二月十七日に授戒会が行われています。

 この時、陰陽師の占いを提案したのは当時清浄華院の法主であった等凞上人であり、受者の玄周もその後法主になっています。
 宮廷陰陽師である勘解由小路在貞に占いをさせ、その占いに従って日取りを決定、また指示により神社にて法要を行っています。当時は僧侶も陰陽師の占いに耳を傾けていた様子がうかがえます。
 時代は下りますが、江戸時代の初めごろ、当時陰陽師の支配をしていた土御門家と交流を持っています。『泰重卿記』によると土御門久脩の葬儀に清浄華院の僧が出仕したことが記されています。
 久脩は豊臣秀吉の怒りを買い終わりに流罪されてしまいますが、秀吉没後に京都へ戻り、土御門家と陰陽道の再興に努めました。彼の努力の結果、土御門家が江戸時代を通じて陰陽道を支配する地位を保つことになりますが、この時の流罪で平安以降の宮廷陰陽道の文献がかなり失われてしまったともされています。
 土御門家の菩提寺は先も紹介した真如堂なのですが、あえて清浄華院の僧侶を呼んでいるのには何か理由があるのでしよう。清浄華院の檀家である山科言継は、朝廷財政の責任者である内蔵頭として何度となく土御門家を助けており、そんな関係もあって土御門家に清浄華院への帰依があったのかもしれませんが、その理由は今のところよくわかっていません。 

 平安時代の陰陽道のカリスマ・安倍晴明が登場する物語をまとった泣不動尊像。清浄華院にゆかりある陰陽師たちもきっとその伝説に触れたことでしょう。 陰陽師たちは自分たちの祖先ともいえる晴明が拝んだともされる像を前に、どんな思いで手を合わせたのでしょうか。