室町時代の不動信仰Ⅲ 能曲「泣不動」

  • 能楽「泣不動」と清浄華院
 
 清浄華院本『泣不動縁起』絵巻が成立した室町時代の中頃、能の演目として「泣不動」というものが登場してきます。史料上の初出は享徳元年(1452)春日大社での奉納能で舞われた時の記録(『春日拝殿方諸日記』)で、観世太夫音阿弥が製作したものと言われています。

 観世太夫音阿弥は六代室町将軍・足利義教に採り立てられた能役者。

 足利義教は将軍就任以前、義円と名乗り天台座主・青蓮院門跡として活躍していました。五代将軍足利義量が急逝、将軍後継者選出で紛糾した幕府は、結局くじ引きで当たりを引いた義円を還俗させ、六代将軍に着けさせたのです。還俗に辺り天台座主を退任しますが、留任するよう比叡山から嘆願が出る程、有能な僧侶であったようです。

 観世太夫音阿弥は義教が青蓮院門跡であった頃から寵愛を受けて活躍し、その名声は師匠で伯父の世阿弥をしのぐほどでした。  
 清浄華院の等凞上人もまた、義教の庇護を受けて活躍した人物。  
 義教を通して、能の「泣不動」と清浄華院の仏画「泣不動尊像」は結びつくわけですが、こうなると両者に何かしらの交流があり、能曲「泣不動」は清浄華院の泣不動尊を宣伝するために作られたのでは…と想像してしまいます。
 

しかしながら現在残っている能曲「泣不動」の謡本の物語の舞台は三井寺になっており、清浄華院の泣不動尊の布教のために作られた、とは到底考えられません。面白い考えではありますが、論拠が乏しいと言わざるを得ません。 

 すでに廃曲となり現在では舞われていませんが、舞台の飾り方や衣装の着付けなどの記録も多少残っているようで、出来る事なれば―…復興させて見てみたいものです。
 

  • 能曲「泣不動」~変化していく物語 

 
 能曲の「泣不動(『鳴不動』と表記することも多い)」の筋立ては、三井寺を訪ねた熊野の山伏が、不動明王の眷属だという童子より泣不動の縁起を聞く、というものです。
 

熊野から松島平泉を訪ねるという山伏。大峰奥駆け道の雲上の峰道、葛城山、大和路、雪まだ残る山城国、近江路を過ぎて、三井寺に差し掛かる。
三井寺は不動尊で有名。気持ちよい春の宵に不動尊を拝もうと護摩壇に座り一心に念誦していると「辺りに住む者」と名乗る人物が、声に引かれて訪ねてくる。山伏はその者に泣不動の謂れを聞かせてくれるように頼む。

語られる泣不動の物語。昔々、三井寺の高僧・智興内供が病気にかかった。智興は弟子達に自分には未だ叶っていない五つの大願があり、それだけが心残りだと語る。弟子の証空はそれを聞き、不動明王に身代わりの誓いを立てる。
たちまち願いは成就して、智興の病は証空に移る。死を覚悟した証空は最期に不動尊にお暇を、と持仏堂に参る。すると苦しみの夢うつつに、不動明王が現れる。不動明王は涙を流しながら証空の志を誉め、さらに証空を助けるため、自分が身代わりになると申し出る。そして証空はすぐさま蘇生したのであった。

「辺りに住む者」ここまで語り、実は不動尊の眷属の童子であったと正体を明かし、不動像の陰に隠れてゆく。そして山伏にその後の顛末を夢中に再現してみせる。

死の定めだけは不動明王でも覆せない。身代わりとなった不動明王は証空の姿となって、閻魔王の居る地獄へ行く。
何も知らない地獄の鬼神達は、閻魔王の前に証空の姿をした不動明王を引き立てる。そして生前の罪を映し出す浄玻璃の鏡に翳すが、初めは何も映らない。次第に見えてきたのは不動明王の姿。鬼神達も閻魔王も驚き慌て、地に伏して不動明王に非礼をわびる。

最後に不動明王の利益を称え、物語は終る。 

 
 大筋の物語は変わりませんが、清浄華院所蔵の「泣不動縁起」絵巻などと比べると、お話しの内容そのものが少し変わっています。

 三井寺を訪ねる山伏や語り手である童子を加えるのは舞台演出として当然ですが、大きく違うのは、安倍晴明が登場しない、証空の母の別れの場面がない、そして不動明王が証空の姿で地獄へ赴いている事などが上げられます。前の二点は省略したと考えればいいのですが、最後の一点は明らかな改編と言えます。

 「泣不動縁起」絵巻などでは不動明王は変装などせず、明王そのままの姿で獄卒達に鎖で繋がれて閻魔庁へ赴きます。獄卒達の当惑した様子や、門番や冥官たちの驚愕の様が描かれ、閻魔庁では閻魔王が連れてこられた不動明王に気づき、慌てて壇を下り、礼拝するという形になっています。獄卒達は表情豊かに動き絵巻の画面におもしろみを加えています。
 
 そこを能では、不動明王が証空に化けて獄卒達をだまし、それが浄玻璃の鏡によって暴かれるという流れになっています。ただの人間だと思って連れてきた坊主が実は不動明王だった――絵巻の展開より劇的な展開になっていると言えます。舞台芸術として、より分かりやすく演出しやすい形に改編されたのでしょう。
 泣不動尊について語る説話には、様々なバリエーションがあります。不動尊が泣いて証空を助ける、ここは変わりませんが他のところは語り手の立場によって様々に変化していきます。 
 

  • 足利義教の最後

 
 神慮に叶うくじ引きで選出された将軍・義教。落ち込んでいた幕府の権威を復興した政治的手腕はめざましいものでしたが、一方で専横も著しく、その治世は『万人恐怖』と恐れられました。
 
 そして、その最期は、家臣である赤松満祐による暗殺でした。(嘉吉の変)宴会に集まった諸大名の居並び、音阿弥が猿楽を舞う中、義教は乱入した赤松勢に首を刎ねられ、その首は満祐に持ち去られてしまいます。

 
 こうした非業の死を前にして、義教の正妻三条尹子は夢中で夫が苦しむ様を見たといいます。血まみれの首だけの姿で舟に乗って現れた義教は尹子に、この苦しみは念仏によってしか救われない、と告げたといい、早速尹子は清浄華院に依頼し、追善供養を行わせています。また伊勢貞国なども義教の肖像を描かせて清浄華院に奉納し追善の御影供をさせていたりします。 義教と清浄華院の深いつながりが伺える事実と言えましょう。 

 義教の跡を継いだ七代将軍・義勝は10歳でありながら在任八ヶ月で急逝、八代将軍に就くのが、足利義政。銀閣寺に象徴される東山文化を築き上げた人物です。
 音阿弥や等凞上人、清浄華院はこの義政からも庇護を受けたようです。度重なる土一揆や政治混乱に悩まされ、その逃避だったとはいえ、文化事業に力を入れた将軍・義政の庇護を受けたのは、その活動の堅実さを評価された結果だったのでしょう。
 しかし義政の治世で政事はますます混乱し、やがて応仁の乱が勃発します。京の町を飲み込んだこの戦は十年余り続くことになります。御所や室町第に近い清浄華院は緒戦で既に炎上し、その後二十年仏殿の再興に至りませんでした。
 これにより室町時代の栄光に影を落とした清浄華院は、戦国時代という荒波の中で、斜陽の時代を迎えていきます。 

 

  • 泣不動信仰の流行

 
 いずれにしろ、15世紀の半ば頃、京都周辺で泣不動尊の信仰が盛り上りを見せていたということは確実であったようです。
 絵像本体の存在が清浄華院の縁起に記され、絵巻が描かれ、また能も作られた―――この一連の泣不動尊に関する出来事、その発生の理由は一体何であったのでしょうか。 当時大変栄えた清浄華院がその流行の発信源だったのか、はたまたそれはべつの場所だったのか… 現在のところよく分かりません。