戦国時代の不動信仰 不動明王と阿弥陀如来

  • 戦国の世の始まり

 
 応仁の乱 等凞上人の時代、幕府や朝廷の帰依を受け繁栄を極めた清浄華院。当時の清浄華院は鎮西一流の本山として振舞い、天皇や将軍の年始の挨拶には清浄華院が他の本山を引き連れて、面会したと言います。

 しかしその華々しい栄華も、永くは続きませんでした。

 応仁元年(1467)に起こった応仁・文明の乱に巻き込まれてしまうのです。十年以上もの間繰り広げられたいくさにより、京の町を焦土と化し、清浄華院もその難から逃れる事は出来ませんでした。

 御所や室町第に近い清浄華院は緒戦で東西両軍のぶつかり合う戦場となり、堂塔伽藍は悉く戦火に焼かれ、巻き込まれ亡くなった僧侶・俗人は数百にも上ったと伝わっています。 乱の勃発により幕府の権威は地に落ち、世は戦国の時代へと突入していきます。

  • 阿弥陀と不動、表裏一体の屏風

 
 そんな乱世の中、中御門宣胤という公家の日記に面白い記事が見えています。

 宣胤は永正十六(1519)年五月、自分の臨終の際に祀る屏風を作る発願をします。表側にはもちろん臨終の本尊、阿弥陀如来を、当代の名画家・土佐光信に依頼して描かせることに。原図は三条西実隆が所持していた「半身阿弥陀画像」を借りています。この絵には四天王寺西門脇壁に恵心僧都が描いたとされる絵を写した物だったそうです。

 さらに宣胤は光信に注文を付けます。――裏に不動明王を描いて欲しい、と。

 この注文に応え、光信は弘法大師御筆の不動明王坐像の原図を取り寄せて半身阿弥陀像の裏に描きました。宣胤は満足して、後日報酬を支払っています。

 阿弥陀の裏に不動…すこし不思議な取り合わせですが、何故宣胤は屏風の表裏に阿弥陀と不動明王を描かせたのでしょうか。

 
 
  • 臨終正念守護のほとけ

 
  宣胤が屏風を作らせたのは臨終に行う儀式、即ち「臨終行儀」の為だったようです。これは死の間際、臨終に心静かにお念仏を唱え、浄土から仏菩薩がお迎えに来てくれる「来迎」を待つために行われる儀式のことです。
 臨終行儀は平安時代以降、盛んに行われた儀式で、臨終間際の往生を願う人に「善知識」と呼ばれる介添えを付けて世話をし、お念仏が途切れないようにしたり、枕元に本尊となる仏像や掛け軸を掛け、その手から糸を垂らして往生を願う人を結んだり、といったことが行われました。
 
 金戒光明寺所蔵の「山越阿弥陀図」にはその儀式の名残の糸が未だ残っていることで知られています。阿弥陀さまが山際から上半身を覗かせて出現するところを描いたもので、同じ構図の絵が沢山残っています。宣胤が描かせた「半身阿弥陀」もそうした物だったのでしょう。

 当時の人々にとって、臨終行儀を滞りなくすませ、心安らかに念仏を唱えて臨終を迎えることは大変重要なことでした。そうした状態を「臨終正念」と言います。

 しかし、あの世とこの世の所属が曖昧になる臨終間際は魔障が入りやすく、用心しなければ往生出来ずに魔に取り込まれてしまうと信じられていました。これはおそらく、死への恐怖や死病の苦しみから、臨終に錯乱してしまう様子を魔障のなすわざと判じたのでしょう。
 
 それに、日頃の信仰があれば諸仏の加護で臨終の錯乱はあり得ない―、はずですから、念仏者にとって臨終は平生の信仰が試される場でもあった訳です。この臨終正念を保つことが往生を願う人々にとって重要な気掛かりだったのです。
 
  宣胤は日記に不動明王を描かせた理由を「為令降伏臨終魔障也(臨終の魔障を降伏せしめんがため也)」と書いています。臨終の魔障を退け、正念を保たせてくれる、臨終正念守護を期待して不動明王を描かせたわけです。  
 
  祈祷本尊としての不動明王のいかめしい姿と、心安らかな世界を望む浄土信仰――一見正反対のように思える信仰ですが、念仏行者の臨終正念を守護するほとけとしての不動明王への信仰は、中世非常に盛んでした。
『泣不動縁起』の中でも、証空は不動明王に「臨終正念ニシテ」と助けを求めています。「臨終行儀」の書物にも、往生者の枕元に阿弥陀如来などの本尊を祀った上、別に不動明王を安置して善知識の一人が臨終正念を祈れと書いたものが残っています。

 『泣不動縁起』を筆頭に、不動明王のご利益を語る中世説話の中には、不動明王が死に臨む者の寿命を延ばすというものが少なからずあります。これは不動明王が臨終の枕元に祀られることが多く、死に至らなかった往生者は、さも不動明王に助けられたように見えたことによるのでしょう。 

  • 「阿彌陀ト不動ト一體」

 
 不動明王が頭に頂く蓮の花 臨終に不動明王が極楽往生を目指す念仏者を守護するという信仰は、極楽の主、阿弥陀如来と不動が一体であるという信仰も生み出します。

 天台系の教学書である『總持抄』や『渓嵐拾葉集』には密教における仏菩薩の象徴、「三昧耶形(さまやぎょう)」や「種字」の解釈を通して、「阿彌陀ト不動ト一體」であるという説を展開しています。
  阿弥陀如来の三昧耶形は金剛杵(横にした五鈷杵の上に独鈷杵が立つ)の上に蓮華が乗るというものですが、不動明王が頭に載せている蓮華と三昧耶形の蓮華が同じものであり、観音菩薩が頭上に頂いている化仏とも同じだとも言っています。

 このあたりは中世密教的な解釈の世界ですが、浄土信仰と不動信仰の親密な関係を知ることの出来る興味深い記述です。
浄土宗寺院・清浄華院と不動信仰

浄土宗寺院・清浄華院と不動信仰
 
 以上述べてきたような不動明王と浄土信仰との密接な関係は、平安時代以降の真言・天台の密教的な浄土信仰の中で唱えられてきたものです。 では浄土宗ではどのようなとらえ方をしてきたのでしょうか。

 浄土宗義では臨終行儀を必ずしも重要視しません。浄土宗内で伝えた往生伝でも臨終行儀を行って往生した事例はもちろん見られますが、『四十八巻伝』の中で法然上人は臨終にあたり、弟子が仏像を安置したり五色の糸を持つようにしたのをお断りになっています。
 また、従来の浄土教では臨終に正念を保って念仏することで仏が来迎し、往生できると教えていました。一方、法然上人は臨終間際の儀式は必ずしも必要ではなく、平生常に念仏を唱えることで、臨終に当たって仏が来迎し、それによって正念が保たれ、往生できると教えました。
 この教えは死に際に仏像を準備したり介添えを必要とする臨終行儀など到底出来なかったであろう庶民や、戦場で死ななければならない武士にとっては大きな救いになったことでしょう。

 臨終行儀には必ず必要とされ念仏者に厚く信仰された不動明王。しかし、臨終行儀を重要視しない浄土宗的には、必ずしも必要とされた尊格ではなかったわけです。

 とはいえ、宣胤がしたように、臨終に阿弥陀と不動を一緒に祀るという思想は、中世の社会に深く根付いていました。

 清浄華院の檀家の多くは公家であり、その日記を見ると浄土宗の寺の檀家でありながら実に様々な宗派の寺院・神社に信仰を寄せていたことが分かります。密教寺院で加持祈祷を頼み、神社に誓いを立て、禅刹にて参禅して茶を喫し、浄土寺院で先祖の供養をする…その信仰と交流は広く厚いものがありました。
 彼らの要求に応える為には、浄土寺院といえども、様々なほとけを用意しておく必要があったのではないでしょうか。清浄華院に泣不動尊が祀られ続けた理由の一つにはこうした中世の信仰が背景になった、と言う事も出来ましょう。 

 泣不動尊の存在は、当時隆盛した中世寺院としての清浄華院が持っていた、多彩な信仰の姿を物語っているのです。
 

  • 乱後の清浄華院

 
 さて、応仁の乱の後、清浄華院は復興に非常に苦労したようで、仏殿の再建には20年の月日を要しました。さらに、戦国時代になると守護大名などの地方勢力の台頭に反比例して、支援者であった朝廷や幕府の権威が失墜し、また他の本山も独自に力を付けるようになっていき、清浄華院は斜陽の時代を迎えます。
  戦国時代を経て安土桃山時代に突入し、豊臣秀吉が天下を取ると京都の町の整備に着手、それに伴い京中に散在する寺院を寺町通り沿いに移転するという事業も行われました。これにより、清浄華院は現在地である寺町広小路へ移転することになります。寺町通は南北に長く寺院ばかりが並ぶ通りですが、その中でも清浄華院はやはり御所に隣接する場所にあります。 
 秀吉は清浄華院の領地所有や兵力の寄宿や所役の免除などの権利を保障してくれましたが、かつての栄華には及ぶべくもありませんでした。 
 この頃の清浄華院については、古文書があまり残っていないため、あまりよく分かっていません。しかし、応仁の乱を端緒に傾き始めた寺運――というよりは少なくとも200年あまり浄土宗の筆頭にあり続けたが故に新たな時代について行けなかったのでしょう。末寺の分離を許し、他山の台頭を食い止めることが出来ず、江戸時代に入ると紫衣の発給権も失ってしまいます。

 とはいえ皇室の帰依は変わらなかったようで、史料からは宮廷周辺の寺院の一つとして活発に活動する清浄華院の様子が見て取れます。1500年代に描かれた洛中洛外図屏風にも京都の有名寺院の一つとして、清浄華院の伽藍の様子が描かれています。